洛中編
その1-六波羅・小松谷
「綺羅充満して堂上花の如し。軒騎群集して門前市をなす」。絶頂期、京の都で一門の人々は管弦を楽しみ、詩歌に没頭し、政治の中枢で国政を動かしました。出世を望む者はこぞって平家に取り入り、「六波羅様(よう)」といっては、平家の人たちの衣装の着こなしを真似しました。平家栄華の残り香を求めて京都を訪ねます。
関連史跡
その2-西八条
洛中における平家の拠点となったのがここ西八条。治承3年のクーデターの際、福原から上洛した清盛は西八条邸を拠点として、京都政界に圧力をかけていきました。清盛の別邸ですが、ここには主に妻の時子が住み、光明心院という御堂を営んでいました。しかし、ここも平家都落ちの際には火をかけられ、六波羅同様、跡形もなく焼け落ちてしまいます。
その3-九条の末
治承5年(1181)11月、福原遷都が頓挫し帰京した清盛は、関東の源頼朝をはじめとする諸国の反乱に対応するため、京の南東の八条・九条の末(鴨川周辺)において新たな防衛拠点の構築に着手します。周辺の貴族の所領を接収し、平家家人の宿館にあてるなど拠点化を進めましたが、八条河原の平盛国邸における清盛の死とともに頓挫しました。平家滅亡後、知盛の遺児知忠が挙兵した「法性寺の一の橋なるところ」もこの付近だったといわれています。平家王朝の新都となる場所だったともいわれる九条の末を訪ねます。
その4-法住寺殿
法住寺は後白河法皇の御所で、平家の六波羅に隣接していました。当時は広大な敷地を有し、通称三十三間堂と呼ばれる蓮華王院や今熊野神社、新日吉神社などが敷地内に配置されていました。後白河による院政開始三年後の応保元年(1161)から木曾義仲による焼き討ちの寿永2年(1183)まで、後白河はここで得意の権謀術数を巡らしたのです。
その5-京都御所
清盛の父・忠盛が鳥羽上皇のために得長寿院を造営し、内裏清涼殿への昇殿を許されたのは天承2年(1132)のこと。その後、平家一門は著しい発展を遂げ、わずか40数年後には「一門の公卿16人、殿上人30余人。…世には又人なくぞ見えられける」ほどの栄華を極めました。平家の公達の栄光の舞台となった内裏の面影を偲びます。
その6-祇園社
祇園と平家とのかかわりといってまず思い浮かぶのは祇園女御ではないでしょうか。祇園女御は、平家物語の中で清盛の母として紹介される女性で実在の人物ですが、生母説は今ではほとんど否定されています。また、祇園社といえば、久安3年(1147)の清盛郎等と祇園社神人との闘乱事件が有名です。山門の強訴にまで発展してしまった大事件で、京都政界で清盛の存在がクローズアップされた初めての事件でした。
その7-五条大橋と義経の史跡
義経と弁慶が劇的な出会いを果たしたとして知られる五条大橋。牛若丸の太刀を奪おうと戦いを挑んだ弁慶が、軽々と打ち負かされて家来になるという話ですが、これはあくまで御伽草子の脚色。実際二人がどこでどのように出会ったのかは分かっていません。ちなみに、『義経記』では五條天神の杜が決闘の舞台。一度では決着が付かず、二度目の清水の舞台における決闘で雌雄は決し、弁慶は義経の家来になったといわれています。
関連史跡-六孫王神社
参考文献
梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 高橋昌明著『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)/大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫)/遠藤基郎著『日本史リブレット24 後白河上皇』(山川出版社)/日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/ 蔵田敏明著『平家物語の京都を歩く』(淡交社)/ 学研ムック『源平ものがたり』(学研)/ 牧野和夫・小川国夫著『新潮古典文学アルバム13・平家物語』(新潮社)