巻九
巻九解説
風雲急を告げる巻九の前半は、頼朝の東国軍と義仲との戦いが描かれます。範頼・義経を大将軍とする頼朝軍は、宇治・勢田で義仲の軍勢を破り、法皇の身柄を確保、義仲は今井兼平との再会を期して勢田の方面へと落ちていきます。ついに主従2騎となった義仲は、今井のすすめで自害を図ろうとしますが、深田に馬の足を取られたところを討ち取られてしまいます。
一方、京で源氏同士が戦っている間に、勢いを盛り返した平家は旧里・福原に戻り、生田の森と一の谷に陣を張ります。しかし、義仲を破った東国軍は、すぐさま平家追討のために西国へ発向。生田・一の谷で源平両軍入り乱れての激戦が繰り広げられます。一進一退の攻防が続く中、鵯越から義経が奇襲をかけると形勢は一気に源氏に傾き、浮き足だった平家軍は大敗走となります。平家は2000余人におよぶ軍勢を失い、討ち取られた公達は忠度、経正、知章、敦盛ら10人を数えました。
生ずきの沙汰(いけずきのさた)
寿永3年正月、平家追討の軍を発しようとしていた義仲は、頼朝の大軍が上洛するとの報せに驚き、いそぎ宇治・勢田に軍勢を遣わす。頼朝には、生食(いけずき)・摺墨(するすみ)という2頭の名馬があった。梶原景季が生食を所望するが、頼朝は梶原に摺墨を与え、生食を佐々木高綱に与える。上洛の途次、梶原は佐々木が生食を得たことを知るが、佐々木は盗んだものと偽って、梶原の怒りを逸らせてしまう。
宇治川先陣(うじがわのせんじん)
頼朝軍は、範頼の3万5000騎が大手の勢田、義経の2万5000騎が搦め手の宇治から京都に侵攻する。宇治では、佐々木高綱と梶原景季が名馬を駆使して先陣を争い佐々木が先陣を果たす。二番が梶原景季、続いて畠山重忠の500余騎が渡河し、両軍入り乱れての戦闘になる。
河原合戦(かわらがつせん)
宇治の防衛線を破った義経の搦め手軍は、いち早く法皇の御所六条殿を守護する。義仲は、六条高倉の女房となごりを惜しんだ。義仲は少数の軍勢で数万の東国軍と戦うが今井兼平を勢田へ遣わしたことを後悔する。今井の行方を探そうと、義仲は鴨川を渡り、勢田へ落ちてゆく。
木曽最期(きそのさいご)
義仲は大津の打出浜で今井兼平と行き会う。二人は再会を喜び、落ち残った300余騎で、最期の合戦を戦う。何度も敵陣を破っていく討ちに、いつしか主従5騎になり、信濃から付き従っていた「便女」巴もそのうちの一人であったが、義仲に訓されて戦場を離脱。主従2騎になった義仲は、今井にすすめられ自害しようとするものの、馬を深田に乗り入れたところを石田為久に討たれる。それを見た今井も刀を口の先に含み、馬からさかさまに飛び降りて自害した。
樋口被討罰(ひぐちのきられ)
樋口兼光(今井兼平の兄)は、源行家を逐って紀伊にいたが、京へ帰る途中、義仲の死を知り、旧交ある児玉党のすすめで降人となった。義経のはからいでいったんは許されたが、法住寺合戦での貴族らの怨みは深く、ついに処刑される。一方、屋島を出て福原に戻っていた平家は、一の谷に城郭を築き、生田の森を大手の木戸口として陣を敷いていた。
六ヶ度軍(ろくかどのいくさ)
平家が福原に渡ると、四国・九州の土豪らが叛くが、能登守教経の再三にわたる戦功で叛乱をおさえることができた。
三草勢揃(みくさせいぞろえ)
範頼・義経の軍は平家追討のため西国へ発向する。福原の平家は清盛の追善供養、叙位除目を行う。源氏は、範頼の率いる大手の五万余騎が昆陽野に、義経率いる搦手の一万余騎は三草山に進出する。
三草合戦(みくさがつせん)
搦手の義経が向かう三草山には、資盛、有盛、忠房、師盛等が3000余騎で陣取っていた。義経は、田代冠者の献策で夜討ちをかけ、油断していた平家の軍勢をうち破る。資盛・有盛・忠房は屋島に逃れ、師盛は一の谷に撤退した。
老馬(ろうば)
三草山でやぶれた平家は、教経に1万余騎をつけて、山の手を守らせる。源氏の大手は、昆陽野から生田に進出。搦手の義経は、7000余騎を土肥実平にあずけ、自らは3000余騎で鵯越を駆け下りようと、三草山から一の谷へ向かう。途中、山道に迷うが、別府小太郎の機転と、土地の猟師・鷲尾義久の案内で、一の谷の後方、鵯越に着くことができた。
一二之懸(いちにのかけ)
熊谷直実・平山季重が、一の谷西口(搦手の土肥実平7000余騎)の先陣を争う。熊谷がまず、夜のうちに城にたどりついて名告りをあげる。平山は遅れをとったが、明け方、平家方の城の木戸が開くと、一番に敵陣に駆け入ったのは平山だった。
二度之懸(にどのかけ)
大手の範頼軍が生田で戦闘を開始する。河原兄弟は先陣を飾るも討死にし、続いて梶原一族500余騎が駆け入る。いったん引いた景時は、子息景季の姿が見えないため、再び敵陣に駈け入って救出する。
坂落(さかおとし)
大手の戦が一進一退の攻防を展開しているうちに、搦手の義経軍は、一の谷の後方鵯越から攻め入る。屋形に火をかけられ総崩れとなった平家は、われ先に海上へ逃れる。これまで不覚をとったことのなかった教経も屋島へ逃れた。
越中前司最期(えつちゆうのぜんじさいご)
山の手の侍大将、越中前司盛俊は、死を覚悟して敵を待っていたが、やってきた猪俣小平六則綱と戦う。いったんは猪俣を組み伏せたが、猪俣は降人になる振りをして盛俊をだまし討ちにし、この日の高名の筆頭となる。
忠度最期(ただのりのさいご)
西手の大将軍・薩摩守忠度は、岡部六野太忠純に追いつかれ組み討ちとなる。いったんは岡部を組み伏せたが、岡部の童に右腕を切られて、討たれる。箙に、「旅宿花」と題して「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」と書かれた短冊があり、その短冊から、岡部は忠度と知った。これを聞いた者は、敵も味方も文武両道の達人の死に涙した。
重衡生捕(しげひらいけどり)
本三位中将重衡は、落ちてゆくところを、梶原景季に馬を射られる。同道していた乳母子の後藤兵衛盛長に乗替えの馬を求めるが、その盛長は重衡を置き去りにして逃げてしまう。重衡は自害しようとしたが、庄高家に捕らえられる。
敦盛最期(あつもりのさいご)
敦盛は、沖の助け船に向かうところを、熊谷直実に呼び返される。敦盛を組み伏せた熊谷は、その公達がわが子と同じ年頃なるのを見て、命を助けようと申し出る。しかし、逃そうにも後ろには源氏の勢が続いており、同じ討たれるならと、ついにわが手にかける。熊谷は腰の笛からそれが敦盛であることを知り、これが出家の機縁となった。
知章最期(ともあきらのさいご)
平家は業盛・経正・経俊・清房・清定らの公達が討たれる。生田の森の大将軍・新中納言知盛は、子息の知章、郎等の監物太郎と3騎で落ちるところを児玉党に襲われるが、知章が身代わりになって討たれ、監物太郎も討死にする。この隙に知盛はひとり沖の船に逃れ、よくよく命は惜しいもの、と事の次第を涙ながらに兄宗盛に語った。
落足(おちあし)
備中守師盛は、船が横転したところを、畠山の郎等に討たれる。山の手の大将軍・越前三位通盛は、佐々木成綱らに囲まれて討たれる。一の谷で戦死した平家方の軍勢は、2000余人、そのうち一門の公達は、10人をかぞえた。
小宰相身投(こざいしようみなげ)
越前三位通盛の侍・くんだ滝口時員が、北の方(小宰相)に夫の死を知らせる。北の方は通盛の後を追い、入水を考えるが、いったんは乳母に制止される。しかし深夜、乳母が寝入ったすきに入水してしまう。この小宰相は、もとは上西門院の女房で宮中一の美人だったが、女院のとりなしがあって通盛の北の方になった。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(三)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)