巻五

巻五解説

 治承4年6月、清盛は突如として都を京から福原に遷します。平氏の悪行はここに極まりました。頼盛の邸が皇居となり、新都の造営も始められましたが、新都は京の都に比べて土地が狭く、事業はなかなかはかどりません。そんな中、東国から頼朝謀反の知らせが飛び込みます。清盛の怒りはすさまじく、維盛を大将軍に、忠度を副将軍とする追討軍が東国へ下ります。しかし、東国武士の勇敢さに怖れをなした平氏軍は、富士川を前に戦わずして敗走してしまいました。
 新都では、なんとか内裏が完成したものの、さまざまな行事を行う施設にも事欠くありさまでした。この度の遷都については君も臣も嘆き、南都北嶺をはじめ諸寺・諸社の訴えもあり、さすがの清盛もこれを断念せざる終えませんでした。都を京に戻す旨が伝えられるや、公卿・殿上人はもちろん、平氏一門までがわれ先にと旧都に帰っていきました。京に戻ると平氏は、近江源氏の討伐に続いて、以仁王に荷担した南都の大衆を討つべく、奈良へ軍勢を派遣します。南都の叛乱は激しく、夜戦の明りのためにつけた火は寺々に燃え移り、東大寺、興福寺は灰燼に帰したのでした。

都遷(みやこうつり)

 治承4年(1180)6月2日、清盛は福原に遷都を敢行する。福原へ移って後も、清盛の法皇への怒りはおさまらず、法皇は「籠の御所」に幽閉された。遷都の先例は神武天皇以来たびたびあるが、人臣の身で、かつ平氏とゆかりの深い桓武天皇の作った平安京を遷都することは、平氏悪行の極まりである。6月9日には新都造営の事業が開始されたが、なかなかはかどらなかった。

月見(つきみ)

 秋になると福原の都では、人々が淡路や絵島の月の名所を訪れたが、徳大寺実定は旧都に戻り、近衛河原にある妹・大皇太后多子の御所を訪れた。月明かりの下で、「待宵の小侍従」という女房と今様を謡い交わした。

物怪之沙汰(もつけのさた)

 遷都の後、福原の都には変化の物が多く出現した。なかでも清盛の眼前には、「ひと間にはばかる程の物の面」や「死人のしやれかうべ」が出現したが、清盛ににらまれ消え失せた。大切に飼っていた馬の尻尾に、一夜にしてネズミが巣を作ったこともあった。また、源中納言雅頼のもとの青侍の夢では、厳島の大明神、八幡大菩薩、春日大明神が現れ、ほどなく政権が頼朝に移るであろうことが神意によって示された。

早馬(はやうま)

 9月2日、相模国の大庭三郎景親から頼朝挙兵の知らせが福原へ伝えられた。頼朝は伊豆の目代山木兼隆を夜討ちにした後、石橋山で大庭の軍勢に打ち負かされた。人々は狼狽したが、清盛の頼朝への怒りはすさまじかった。

朝敵揃(ちようてきぞろえ)

 本朝の朝敵は、神武天皇の代の土蜘蛛以来数多いが、野望を遂げたものはいなかった。しかし末法の今、朝廷の権威はかつての醍醐天皇の延喜の聖代に比べて地に落ちている。

文覚荒行(もんがくのあらぎよう)

 頼朝は父義朝の謀反により伊豆に流され、20年間を過ごした。頼朝の謀反は高雄神護寺の文覚上人の勧めであった。文覚は昔、遠藤武者盛遠といったが、出家後、熊野の那智で荒行を行い、不動明王の加護を得、鋭い効験をあらわす修験者となった。

勧進帳(かんじんちよう)

 熊野での修行の後、文覚は荒れ果てた神護寺の再興のため勧進活動を開始した。ある時、後白河法皇の御所へ参上し、案内も申さず中庭に押し入り、大声で勧進帳を読み上げた。

文覚被流(もんがくながされ)

 勧進帳を読み上げた文覚は、狼藉者として捕らえられ、獄につながれた。しかし、彼は一時許された後も世の乱れや君臣滅亡を吹聴したため、伊豆に配流された。配流の途次、文覚は龍神を叱り、31日間の断食をするなど、普通の人とは思えいないような振る舞いが多かった。

福原院宣(ふくはらいんぜん)

 文覚は伊豆で流人頼朝をたびたび尋ねたが、ある時、平氏への謀反を勧め、義朝の髑髏というものを見せた。文覚は頼朝を赦免するべく福原の都へ急ぎ上り、平氏討伐の院宣を藤原光能を介して賜り、頼朝に持参した。この院宣は、石橋山の合戦のときも首にかけていたという。

富士川(ふじがわ)

 福原の都では、頼朝討伐のため維盛・忠度を大副将軍として3万余騎が東国に発向した。また高倉上皇は厳島に御幸し願文を奉納した。途中で兵を加えた平家軍は、富士川に着くころには七万余騎となった。一方の源氏軍は甲斐・信濃の源氏を糾合して20万騎の大軍に膨れ上がっていた。斉藤別当実盛から東国武者の勇猛ぶりを聞いておびえた平氏軍は、富士川で水鳥の羽音に驚き、戦わずして敗退した。

平家物語絵巻「富士川」

五節之沙汰(ごせつのさた)

 頼朝は平氏を追うことをせず、相模国に引き返していった。敗走した平氏に対しては、その軍勢を風刺する落首がたくさん貼られた。清盛の怒りはすさまじく、維盛を流罪に、忠清を死罪にせよと命じるが、盛国の取りなしで罰せられることはなかった。それどころか、功もない維盛が右近衛中将に任官されるなど、不可解な勧賞が行われた。天皇は新内裏に遷ったが、大極殿もなく、形だけの新嘗祭と五節舞が神祇官で行われた。

都帰(みやこがえり)

 君臣の嘆きや寺院勢力の不平などが高まり、ついに清盛は旧都に都帰りすることを決意した。高倉上皇の病状も悪く、急いで福原を出ていった。摂政をはじめ、太政大臣以下、公卿・殿上人、平氏一門も、われ先に京へと帰っていった。南都北嶺に対する計らいとして決行された遷都であったが、残されたものといえば、人々の狼狽と混乱、そして破壊のみであった。

奈良炎上(ならえんしよう)

 頼政の叛乱以来、南都の動きは不穏を極めた。南都の狼藉を沈めるために派遣された妹尾太郎兼康の軍勢は、無防備のところを悪僧達に攻撃された。怒った清盛は、重衡を大将軍として討伐の軍勢を南都へ派遣した。夜に入り暗くなると、夜戦のためにつけた火が東大寺、興福寺に飛び移り、南都は焼き滅ぼされてしまった。一院、上皇、摂政以下の人々の嘆きは深かった。

東大寺縁起絵巻「奈良炎上」

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)