巻二
巻二解説
巻二はすべて治承元年(1177)のできごとです。いよいよ鹿ヶ谷の陰謀は露見し、西光は斬られ、多くの院の近臣が流罪になりました。清盛は後白河院を幽閉しようと兵を集めますが、重盛の諫言によって思いとどまります。また、首謀者の一人大納言成親は、重盛のとりなしでいったんは流罪になるものの、配所先で非業の最期を遂げます。そうした中、延暦寺は内部の抗争により荒廃していき、同じ頃善光寺も炎上しました。人々は平家の世の終わりを噂しあいました。
成親の嫡子成経と平判官康頼、法勝寺の執行俊寛は鬼海が島に流されます。信仰心のあつい成経と康頼は、島の中で熊野詣での真似をして日を暮らします。帰京を願い、康頼が千本の卒塔婆を作って海に流したところ、そのうちの一本は厳島に流れ着き、京へ伝えられて大きな話題となりました。
座主流(ざすながし)
治承元年(1177)5月、西光父子の讒言により、天台座主明雲は白山事件の首謀者として流罪と定められる。清盛もこれをとりなそうとするが、法皇は受け付けなかった。山門の大衆は西光父子を呪詛し、明雲奪還のために東坂元に下る。
一行阿闍梨之沙汰(いちぎようあじやりのさた)
十禅寺権現の託宣により、明雲を奪還した大衆は、これを東塔南谷の妙光坊に入れる。かつて唐の一行阿闍梨も無実の罪で流されたが、天の加護によって救われた。
西光被斬(さいこうがきられ)
明雲奪還に憤った法皇は山門への武力攻撃を考える。大衆は動揺し、院宣に従おうとする者も見え始めた。五月二十九日、多田蔵人行綱は平家への陰謀を無益と考え、このことを清盛に通報した。成親は西八条に出頭を命じられ、平判官康頼、俊寛らも捕らえられた。西光は院の御所へ逃げ込もうとしたがかなわず、拷問の末、六条河原で処刑された。
小教訓(こぎようくん)
清盛は成親に西光の白状を突き付け怒りをぶちまけ、郎等に命じて成親を陵辱する。そこへ成親の妹を妻にもつ重盛がやって来て、情理を尽くして説いたため、清盛は成親の殺害を思いとどまる。成親の妻は幼子を連れて雲林院へ逃げ込んだ。
少将乞請(しようしようこいうけ)
清盛の弟教盛の娘は、成親の子息成経に嫁していた。成経は舅の教盛に伴われて清盛邸に出頭する。教盛は、聞き入れられなければ出家の意志まであることを告げて清盛を説得したため、成経の身柄は教盛に預けられた。
教訓状(きようくんじよう)
清盛は法皇幽閉を決意し、自らも武装して出陣の準備を命じた。そこへ急を聞いて駆けつけた重盛が、普段どおりの烏帽子直衣姿でやって来た。重盛は、院への叛逆は朝恩を忘れた、神慮に背くものであるとして、清盛を諫める。
烽火之沙汰(ほうかのさた)
「悲哉(かなしきかな)君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷慮八万の頂より猶たかき父の恩忽に忘れんとす。痛哉(いたましきかな)不孝の罪をのがれんと思へば、君の御ために既不忠の逆臣となりぬべし」。重盛は法皇と父との板ばさみとなった苦衷を泣いて訴えたので、ついに清盛は法皇幽閉を断念。自邸に戻った重盛は突然将士を召集し、故事を語って変わらぬ忠誠を求めた。
大納言流罪(だいんごんるざい)
6月2日、成親は難波経遠に護送されて、配所備前児島へ下った。院の寵臣として栄華を誇った身だが、嘉応元年に山門と敵対した報いが今、現れたのである。
阿古屋之松(あこやのまつ)
成経は、身重の北の方と三歳になる息子を残して備中妹尾に流される。児島から有木の別所に移された父成親の配所への距離を尋ねた成経は、「片道十二、三日」という妹尾兼康の嘘の答えに、実方中将の故事を語ってその非情を難じた。
大納言死去(だいなごんのしきよ)
成経は俊寛・康頼とともに鬼界が島に流され、このことを聞いた成親は出家した。妻子の文を持って訪れた使者に、死を予期して髪の一房を託した成親は、八月十九日、ついに惨殺され、これを知った北の方も出家した。
徳大寺之沙汰(とくだいじのさた)
成親と同じく大将を超えられた実定は、出家を思い立つが、家司重兼の提案で清盛の信仰する厳島神社に参詣、厳島の内侍を都に伴い歓待する。西八条にやって来た内侍にそのことを聞いた清盛は感激して、重盛が左大将だったのを辞めさせ、また宗盛の右大将も超えて、実定を左大将に任じたのだった。
山門滅亡 堂衆合戦(さんもんめつぼう どうしゆかつせん)
法皇は三井寺で伝法灌頂の儀式を行おうとしたが、山門の憤慨のため、結局天王寺で行われた。山門では、学生と堂衆との間に対立抗争が起こり、清盛は官軍を送ったが、堂衆・悪党の前に敗北する。
善光寺炎上(ぜんこうじえんしよう)
そのころ善光寺も焼失した。善光寺の本尊は天竺、百済、日本と伝えられた尊い阿弥陀像である。人々は、このように多くの霊寺霊山が亡びるのは、平氏滅亡の前兆だと語り合った。「王法尽きんとては、仏法まづ亡ず」。
康頼祝言(やすよりのつと)
鬼海が島に流された成経、康頼、俊寛の三人は、教盛から送られる衣食で命をつないでいた。配流の途次、周防室積で出家した康頼は、成経とともに島内に熊野権現を勧請したが、不信心の俊寛だけは参加しなかった。康頼は祝詞を作って帰京の願いのかなえられることを祈った。
卒都婆流(そとばながし)
祈願を続ける康頼と成親は都に帰ることができるという夢告を二度得た。康頼が千本の卒都婆に和歌を書いて海に流したところ、そのうちの一本が厳島に漂着した。たまたま康頼の知り合いの僧がこれを見つけ、都に伝えられて法皇ばかりでなく清盛をも感動させた。
蘇武(そぶ)
都の人々は康頼の歌をもてはやした。昔、漢の蘇武は胡国に捕らわれたが、雁に託した文が漢王に届き、帰国することができた。いずれも望郷の念が起こした奇跡である。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)