高倉院厳島御幸記
『高倉院厳島御幸記』ついて
[背景] 治承4年(1180)2月に安徳天皇に譲位した高倉上皇が、3月19日に京を出立し、安芸国一宮の厳島神社に参詣し、4月9日に帰京するまでの旅の様子を記した紀行文である。前年、平清盛がクーデターを起こし、後白河法皇を幽閉。外孫の安徳を即位させ、娘婿の高倉上皇による院政を名目に実権を掌握した。当時、退位後の上皇の最初の寺社参詣は、賀茂神社や石清水八幡宮、春日社などが一般的であった。そのため、人々の不満は大きく、比叡山や三井寺の大衆が上皇の身柄を奪おうとしているという風聞が流れる中での御幸であった。ただし、高倉上皇にとっては、平家の尊崇する厳島に参拝することで、父の後白河に怨みを抱く清盛の心を和らげようという配慮があったといわれる。このような緊迫した政治状況や人間模様は、本書の随所に見え隠れしており、当時の宮廷の雰囲気や貴族の心理を知るための史料としても価値が高い。
[作者] 筆者は、新院別当として旅に随行した源通親である。公家源氏最高の家格を誇る村上源氏で、治承4年に平徳子の中宮権亮(中宮職の次官)に任じられており、平家との関係は良好であったとみられる。平時子の異母弟能円が平家一門とともに都落ちした後、能円の前妻で後鳥羽上皇の乳母であった藤原範子と結婚。能円と範子の娘在子を養女にして後鳥羽に入内させた。その後、摂政九条兼実と外祖父の地位を争い、「建久七年の政変」(1196年)で兼実を失脚に追い込むと、在子が生んだ土御門天皇を即位させ、朝廷の実権を掌握した。源頼朝をも煙に巻く策略家であったが、文人としても高い教養を備えていたことは本書にもうかがえる。内大臣右大将を極官として、建仁2年(1202)に54歳で亡くなった。
[凡例] 平家一門・縁戚は赤で、それほどの関係でもない人物は青で示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓や名を補った。また、小見出しは読みやすさを考慮して訳者(管理人)が適宜付したもので原文にはない。
厳島御幸の決定と準備
頼りなく年が変わって治承4年となった。春の初めに素晴らしいことが多く、書き尽くすのも難しい。(高倉院が)退位され、厳島への御幸があるはずだとささやかれているのも、夢の浮橋を渡るような気持がするところに、如月の20日(正確には2月21日)、東宮(安徳天皇)に譲位されて、内侍所、神璽、宝剣をお遷しする夜は、数日前からお思いになっていたことではあるものの、心細い御気色も見えたようであった。廷臣や女房たちも果てしなく寂しさが尽きることはなかったが、空模様もかきくもり、残雪がにまだらになるほど(雨が)打ち注いで、日暮れになる頃、公卿たちが陣の座に集まって、当然すべきことを(譲国の節会や固関、剣璽渡御など)、先例に従って行われたところに、宣旨を受け給わって陣の座に出て、譲位のことを、左大臣(藤原経宗)がおっしゃるのを聞いて、情けのある人は袖を濡らし、何とはなく思い続けることが様子に表われている。その中に、特に誠意のある人(源通親)は、このように思いを歌に詠んだ。
かきくらし降る春雨や白雲のおるゝなごりを空にをしめる
(あたり一面が暗くなって降る春雨は、白雲が下りる名残を惜しむかのように、主上の退位を空も惜しんでいるのだろうか)
ちょうど良い時刻になったということで、何となく人々が集まって騒ぎ始めた。弁内侍(高階業子)が御佩刀(はかし。宝剣)を手に取り歩み出る。清涼殿の西表(里内裏である閑院殿の東対屋)で(藤原)泰通の中将がこれを受け取る。備中の内侍(前和泉守源季長娘)が璽(しるし)の箱(神璽の入った箱)を取り出し、(藤原)隆房中将が受け取って、近衛府の官人が付き添って出る。長い間、(高倉院の)側に仕え、大切に扱ってきた御佩刀、璽の箱に、手を触れるのも今夜までと思いめぐらしているだろう内侍の心の内が思いやられて気の毒である。儲の君(安徳天皇)に譲位して藐姑射(はこや)の山(院御所)の中も閑かになったなど、お思いになるであろうことだけでも、寂しさが募るというのに、まして心ならず、いたましいことになるであろう、先々の有様が自然と思いやられる。
譲位の儀式が終わり、明け方になると、人々が閑院殿に帰ってまいり、何となく灯火の光もかすかに、人の出入りもまれになり、涙が止まらない心地がしているところ、院号が仰せられて、院御所への昇殿を許される者をはじめ、あれこれが定められる。時刻を知らせる鶏人の声も止み、滝口の武士が宿直につく際の名乗りの声も絶えて、門の近くで人々が牛車の乗り降りをしていたのも、嘘のように思われた。その頃、閑院殿の池のほとりの桜が咲き初めているのを見て、次のように詠んだ。
九重のにほひなりせばさくらばな春知りそむるかひやあらまし
(閑院殿が内裏だった頃に咲き匂うのだったら、桜の花も春に初めて咲く甲斐があるだろうに)
かくして、厳島御幸を行うこととなり、3月3日、神宝(神社に奉納する神服・幣・鏡などの宝物)を始めるべき日についての沙汰があった。譲位されてからは、賀茂神社や石清水八幡宮などへこそ、最初に御幸されるべきであるのに、思いもよらない海の果てへ、浪を押し分けて、どのような御幸なのかと歎かわしく思うけれども、(平清盛の)荒々しい浪のような気色がおさまらないので、口に出して言う人もいない。
4日が吉日ということで、譲位後初めての御幸を行うべきであると定められる。当日の明け方から雨が降って、夕方に晴れた。尊号の儀式(新帝から上皇に尊号を送り、先帝が謙って辞退する儀礼)をされて、(藤原)実国大納言が(尊号を辞退する奉書を持った)院の使者として参内する。
夜になって、土御門高倉の(藤原)邦綱の大納言の家に御幸された。殿(摂政藤原基通)から唐の御車、乗り換え用の馬など、何やかやと殿におさせになる。御車に従う行列の装束も、とても素晴らしい。御随身の者たちはさまざまに威儀をつくろい、御前払いを勤める。公卿・殿上人は残る者なくお仕え申し上げる。これに伴い、中宮(平徳子)が行啓される。今夜、厳島の神宝が始められる。御供の人が定められる。煩いなく、質素に、忍ぶようにとの仰せがある。
西八条殿への御幸と門出
宮廷内の鶯が静かな声でさえずり、四方の山辺も霞が一面に立ちこもり、春深い景色にも、旅の心細さに、何とはなく世の中のさまざまが無意味に思われ、別れを惜しむ同輩たちの声も多く聞こえる。長い春の日も空しく暮れて、17日に都を出立される予定であるところ、比叡山の大衆があれこれと文句を言うのが聞こえて、穏やかではなかったので、今日は西八条殿へ、御門出(実際の旅立ちの前に吉報に移る仮の門出か)をしなければならないということで、八条大宮の二位殿(平時子)のもとへ御幸された。何となく浪の浮巣(水上に浮いているように見える「鳰の浮巣」にかけている)のようにゆらゆらと歩いて、夢か、夢ではないかということばかり(思いやられる)。公私ともに恋い慕い合う女との名残も、どんなに惜しいだろうかと、「予期しない別れ(死別)もあるのでは」など、ひたむきな様子で言っていた女の辛そうな様子に、内裏へお暇を申し上げようと参内した際に立ち寄って、無常の世に、生き残ったり先に死んだりする例や、旅の空の寂しさなどを何度も話し合っているうちに、おぼろげな月影がうっすらと差し込んで、窓の外の梅がすっかり散ってしまったのに、香りだけ梢に残っているような趣で、ふとした機会にそれとなく伝える話も、言い尽くすことが難しい。ほどなく、夜もおいおい更けてきましたと、諫める供人の声に促されて出ていくこととなり、歌を書きつける。
目のまへにとまらぬものは今はとて立ち出づる程の涙なりけり
(目の前に止めようにも止まらないものは、いよいよお別れだと言って出立しようとする時に流れる涙でしたよ)
思ひやれ都の空をながめても八重の潮路の旅のあはれさ
(思いやってほしい、都の空を見つめて、はるかな海路を分けてゆく私の旅の哀れさを)
西八条殿へ「御幸の支度をしてください」と申し上げる御使が何度も参上するところを、「慣れない旅の空が気がかりです」などと(高倉院が二位殿に)申されます。(藤原)隆季大納言が参上して、「御幸の準備ができたので参りましょう」と催促申し上げるのも身につまされるところ、「御供をすることになっている人は、すべて船に参りなさい」ということで、草津(京都市伏見区)という所に平張(天井に平らに幕を張った仮屋)を設置し、御供の人々が参事して用意している。隋の煬帝が錦の纜(ともづな)でつながせたという船とは比べられないけれども、しっかりと趣向が凝らされている。数々の御船は峰の嵐に吹かれて、色とりどりの木の葉が波打ち際に散り敷かれたように、海上に散らばっている。御供の女房達は、ほとんどが、夏も深まった梢になく蝉の声のように鳴き声を上げて御船に参る。近づいて指図して乗せても、「これはまあ、どのような旅のお遊びなのでしょう」と、不吉な言葉を慎みもせず歎き悲しむのを、「御門出に縁起でもない」などと諫めるものの、自分の心中も動揺している。
朝日が差し始める頃、御幸が始まる。殿上人は10余人、公卿は7、8人ばかりが、日常の略服である直衣でおいでになる。御車をさし寄せて、上皇を御船にお乗せになる。閑院の池の舟にお乗せになる習慣からだろうか、いつか、このような道中をご覧になったように思われる(原文=いつかはかゝる道にも御覧ぜむとぞ覚ゆる)。
帥大納言(藤原)隆季、藤大納言実国、五条大納言邦綱、土御門宰相中将通親、殿上人では、中将隆房、弁(藤原)兼光が、御幸の差配をお受けし執り行う。木工頭宗のり(平棟範)、この他は前右大将(平)宗盛、頭亮(平)重衡、讃岐の中将(平)時実などがお仕えする。女房は4、5人ほど、どうしても(高倉院から)離れがたい人々がお仕えしている。随行の人は多くないとお思いになるが、そうはいっても船の数は非常に多く、ほどなく水の浜(京都市伏見区淀見豆町)にお着きになる。(高倉院は)御船にお乗りになったままで、浜の上に錦の幄(中央に柱を立てて棟を作り、幕を張った仮屋)を立てて、薦のむしろを敷き、御幣を寄せて立てる。御贖物(あがもの。罪や穢れを贖うため祓の際に供える代物)を隆房中将が手にとって、御船に奉る。宗教(平棟範)が供物を取り次ぐ役奏としてお仕え申し上げる。掃部頭(安倍)季弘が御禊(上皇が神事の前に行う潔斎)にお仕えする。
福原で清盛の歓待を受ける
こうして御船は出航し、東からの春風を受けて西へと下って行かれる。申の刻(午後4時前後)に川尻の寺江(兵庫県尼崎市杭瀬寺島付近)という所に到着なさる。(藤原)邦綱の大納言がつくり、おもてなしに心を尽くした御所へ、(高倉院は)御船ごと入り、(寝殿造の池にのぞむ)釣殿からお降りになられる。襖の数々に唐絵や大和絵などが描かれている。厩には葦毛の馬(白い毛に黒や他色を交えた馬)を2頭たて、素晴らしい鞍をかけている。部屋の装飾(または装束)は数えきれないほどである。公卿・殿上人の居室も、すべて同じような装いである。(清盛が)福原(神戸市兵庫区・中央区)から「今日は吉日ということで、船にお乗りください」といって唐船をさし向けて献上する。(船の形は)本当にものすごく、絵に描かれたとおりである。唐人がつきそって参上した。「高麗人(渡来人)には軽々しく対面されてはならない」という、どなたか(宇多院)の御時に仰せがあったとかいうのに、(唐人たちが)むやみに近くまで伺候するのが、お気の毒で見ていられない。御船にお乗りになって、難波江の内をめぐって、お上りになった。
夕方、雨が静かにそぼ降り、旅の宿にあって早くも都が恋しく、心細いありさまである。「このように雨が降ったなら、明日はここに泊まるべきか。あるいは陸路で福原に着くのがよいか。船で行くべきか」など、(高倉院が)右大将(宗盛)にご相談なさる。
明朝、雨はなおもやむことなかったが、「日の吉凶の良し悪しは決まっているので、お泊りになるべきではありません」ということで出立された。「雨空は風が定まらない」ということで、陸路により御幸される。西の宮(西宮戎神社、兵庫県西宮市)で御幣を奉られ、庭で礼拝される。(平)棟範が使者として参った。(高倉院)は御輿で出て行かれ、人々はみな馬でお仕え申し上げる。歌枕として有名な鳴尾の松(西宮市鳴尾町)を過ぎると、(「浦づたふ磯の苫屋の梶枕 聞きもならはぬ波の音かな」(千載和歌集、藤原俊成)の歌のように)聞きなれない浪の音も、磯部の近くを進むうちに、いつのまにか慣れてしまったような心地がしつつ、どこともはっきりしない山川を何となく通り過ぎ、はるばる遠くまで進んでいった。西の宮の前で経文を読誦し手向けて(法施)、無事に都へ帰れるようにお祈り申し上げる。未の刻(午後2時前後)は都賀の山坂(神戸市灘区)に到着された。あたり一帯の海を池と思って見ると、(「三千世界眼前尽 十二因縁心裏空(三千世界は目の前に尽きぬ、十二因縁は心の裏に空し)」(和漢朗詠集、都良香)の詩のように、)どうして、三千世界が尽きることががあろうかと見えたことであった(何かは三千世界も残らんと見へたり)。ここで昼のお食事をなさって、まもなく出立された。
生田の森などをうち過ぎて、申の下り(午後5時頃)に福原にお着きになられた。入道大きおほいまうち君(入道太政大臣、清盛)が心を尽くしたおもてなしの支度のみごとさは、心や言葉では表せない。天下を思いのままにしている権勢を背景とした整えは、(都にいる人々にも)想像できるだろう。本当に(神仙が住むという)66の洞天に入ったような心地がする。木立や庭のありさまは、絵に描きとめたいほどだ。噂に聞いていたよりも勝っていて、例がないほどに見える。
続く...
参考文献
大曾根章介・久保田淳校注『高倉院厳島御幸記』(岩波書店)/梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄(上)』(講談社学術文庫)/和田英松著・所功校訂『官職要解』(講談社学術文庫)