鶴岡八幡宮寺供僧次第
武都鎌倉の中心であり、源氏の守護神である鶴岡八幡宮だが、実は数多くの平家一門が僧侶として仕えていた。
八幡宮における最高職は別当、次いで供僧である。供僧は供奉僧の略称と考えられており、本尊に供奉する僧、あるいは諸社の神宮寺を預かる社僧をいう。鶴岡八幡宮には25坊があり、それぞれに供僧がおかれたが、各坊の初代の供僧の半数以上が平家一門だった。平家の怨霊鎮魂のため、その子孫が数多く選ばれたと推測されている。別当にも平時忠の一門が1人任じられている。さらに、源実朝の帰依を受けた忠快(教盛の子)、勝長寿院の僧となった増盛(知盛の子)などもおり、かなりの数の平家一門が鎌倉の宗教界を支えていた。
25という坊の数は阿弥陀仏の来迎に従う25の菩薩に由来するとされる。建久2年(1191)頃までに25人の供僧が奉仕する体制ができ、遅くとも建保5年(1217)頃までに25坊が成立したと考えられている。供僧の補任は、治承4年(1180)までは頼朝が単独で行い、同5年から頼朝か初代別当円暁、建久8年(1197)からは別当が決めることが定められた。ちなみに、供僧が改替された後、別当の一存で補任できる供僧を「進止の供僧」、将軍から直接補任される供僧を「外様の供僧」と呼び、外様が進止よりも格上であった。
供僧の役割は天下安全のために最勝王経・大般若経・法華経・供養法・諸経を勤行することで、坊ごとに担当の経典が決まっていた。さらに遷宮の際にご神体を担ぐ御殿司職、法会の装束や仏具などを調達する執行職、別当の執事を務めたと考えられる執事職、経典を講読する学頭職などの職務を兼帯することも多かった。
以下、「鶴岡八幡宮寺社務職次第」「鶴岡八幡宮寺供僧次第」から平家一門の僧侶を抽出し、門流や出自、事績などを紹介する。定暁は「社務職次第」、行耀以降は「供僧次第」によった。『吾妻鏡』にのみ記載の事績は、わかる範囲で各項の末尾に付記した。
また、公暁による源実朝暗殺に与同した供僧は名前の横に*マークを、関与が疑われた供僧については名前の横に※マークを記した。
平家出身の別当
定暁
「鶴岡八幡宮寺社務職次第」によると、第3代別当の定暁は平大納言時忠卿一門であるという。初代円暁と2代尊暁は兄弟で、父は後三条天皇の孫、母は源為義の娘、4代公暁が源頼家の三男であり、いずれも源氏の血脈に連なることを見ると、定暁の別当就任は異例といえよう。
定暁は三位法橋、太(ふとり)別当と号し、在任は12年に及んだ。初代円暁に入室。園城寺の公胤僧正の灌頂弟子である。建永元年(1206)5月18日に社務職(別当)に補任、同7月に初めての神拝を行う。同2年1月9日に北条政子が参詣した折、上宮において法華経供養の導師を務めた。同16日、政子が病になった際は相州邸(北条義時の屋敷)で祈祷を行い大般若経を転読している。建暦元年(1211)1月22日、登壇受戒する弟子の善哉(公暁)とともに上洛。建保4年(1216)8月19日には北斗堂を建立。同5年5月11日に腫物を患い入滅した。
定暁の死後、園城寺にいた公暁が呼び寄せられ、北条政子の意向により6月20日に4代別当に就任する。同年10月11日に神拝を行い、その直後から公暁が「宿願」のため神宮寺において千日の参籠に入り、同5年1月27日、甥の源実朝を暗殺したことはよく知られている。「鶴岡八幡宮寺社務職次第」には、公暁に同意した供僧として良祐・頼信・良弁の3名を挙げ、事件直後に改替されたことを記している。ただし、「供僧次第」によると「頼信」は教盛の孫「顕信」の誤りのようである。
[吾妻鏡]
正治元年(1199)11月19日-比企能員邸の蹴鞠会に参加/建永元年(1206)1月8日-御所心経会の導師/承元元年(1207)1月9日-将軍家御台所上宮法華八講の導師/建暦元年(1211)9月15日-定暁の坊で公暁が落飾。建保4年(1216)10月29日-将軍家鶴岡北斗堂一切経供養の導師
平家出身の供僧
行耀
最勝王経衆・三部法華経衆の一番を務める林東坊(荘厳院)の初代供僧。法流は山門流(延暦寺派)と東密を兼修。大夫法印法橋法眼少僧都、山口法印と号した。平家一門の人で、推挙者は畠山重忠。高野山の恵光院坊主を務め、右大将家(頼朝)により補任された。寛元元年(1243)7月14日に85歳で入寂。
重慶※
最勝王経衆・三部法華経衆の一番を務める安楽坊(安楽院)の初代供僧。平家の出身で、法流は寺門流(園城寺派)。安楽房法眼。推挙者は畠山重忠。建久元年(1190)8月、初代別当円暁により補任。建仁元年(1201)8月25日から3日間、将軍家の如法大般若経結願の導師を務める。同3年(1203)に頼家が重病になった際は8万4000基の泥塔供養の導師を務める。承久の乱勃発後の承久3年(1221)5月26日、世上無為の祈祷のために行われた大仁王会の講師を勤めた。これが関東における大仁王会の始まりとなった。
[吾妻鏡]
建久2年(1191)2月15日-鶴岡若宮臨時祭経供養の導師/同年8月15日-鶴岡放生会経供養の導師/建仁3年(1203)2月5日-鶴岡神宮寺法華経供養の導師/同年12月1日-鶴岡上下宮法華八講の導師/建保7年(1219)1月29日-公暁による源実朝暗殺の与同の嫌疑を受けたが無実により供僧職を安堵/嘉禄元年(1225)1月14日-北条政子御願による鶴岡最勝八講の講衆/寛喜3年(1231)5月9日-将軍御所における1万巻の心経供養の導師/同5月17日の鶴岡大般若講・問答講の問者
円信
最勝王経衆・聖観音供衆二番を務める座心坊(朝宝院)の初代供僧。法流は寺門流。座心坊律師。養和年間(1181-82)に北条時政の推挙により鶴岡の供僧に補任。建保5年(1217)7月20日、3代別当定暁により座心坊供僧に補任される。三河国額田郡(愛知県岡崎市・豊田市)の人とされるが、実は「平家一門」で越中次郎兵衛子(平盛継の子)であるという。
[吾妻鏡]
嘉禄元年(1225)1月14日-北条政子御願による鶴岡最勝八講の講衆/寛喜3年(1231)5月17日-鶴岡大般若講・問答講の問者
良喜※
大般若経衆・三部法華経衆二番を務める頓覚坊(相承院)の初代供僧。法流は山門流。号は頓覚坊律師。平家一門の人である。在任は50年、うち学頭職の兼務は31年に及ぶ。治承4年(1180)11月15日に鶴岡供僧に補任。建久3年(1192)7月20日、北条時政の推挙で、右大将家下文により頓覚坊供僧に補任される。建仁2年(1202)学頭職となる。これが鶴岡における同職の始まりとなった。建暦2年(1212)3月13日、尊勝仏供僧を兼務。寛喜3年(1231)10月7日に82歳で臨終正念。結縁した人々は貴賤上下を問わず数えきれないほどであった。鶴岡の修正始行の先達である。
[吾妻鏡]
建保4年(1216)2月1日-日食の御祈/同6年12月2日-北条義時草創の大倉薬師堂本尊薬師如来像供養の堂達/建保7年(1219)1月29日-公暁による源実朝暗殺の与同の嫌疑を受けたが無実により供僧職を安堵/嘉禄元年(1225)1月14日-北条政子御願による鶴岡最勝八講の講衆/寛喜3年(1231)5月17日-十箇日問答講の問者
良祐*
大般若経衆・三部法華経衆一番を務める静遠坊(最勝院)の初代供僧。法流は山門流。号は静慮坊竪者。平家一門である。頼朝の時代に初代別当円暁により補任。推挙者は北条時政。建保7年(1219)1月27日、公暁の実朝暗殺に与力して改替された。
[吾妻鏡]
建保7年(1219)2月1日-公暁の実朝暗殺を受けて罪科が審議されたが関与していないとして本坊を安堵
※『供僧次第』は改替されたと記すが、『吾妻鏡』は讒言を受けて罪科が審議されたが謀反にかかわっていなかったとして、北条義時によって本坊が安堵されたとする。
良智※
大般若経衆・三部法華経衆二番を務める南禅坊(等覚院)の初代供僧。法流は寺門流。肥前律師を称した。当社最初の小別当。肥前法橋の子。実は本三位殿息(重衡の子)である。佐々木氏の推挙で供僧に補任。
[吾妻鏡]
建保7年(1219)1月29日-公暁による源実朝暗殺の与同の嫌疑を受けたが無実により供僧職を安堵/嘉禄元年(1225)1月14日-鶴岡最勝八講の講衆/寛喜3年(1231)5月17日-鶴岡問答講の問者
良稔
大般若経衆・聖観音供衆一番を務める永乗院(普賢院)の初代供僧。法流は東密(東寺)で、世人から雪下僧都と呼ばれた。宰相阿闍梨を称した。近衛大納言忠良の息で良覚法印の弟※1。頼朝・実朝に賞翫された人である。ある記録によると、実朝が見た感夢※2により、大宋朝に渡り能仁寺の仏舎利を実朝に奉ったという。円覚寺に伝わる仏舎利がこれである。平家一門の人である。
※1近衛忠良は基実の子。父基実・兄基通の妻がいずれも清盛の娘であったことから「平家一門」と記されたのだろうか。「供僧次第」によると、永乗院(普賢院)の2代供僧良舜は、良稔の甥で大納言律師を称した。良稔の譲りで嘉禎2年(1236)3月12日に供僧職に補任され、宝治元年(1247)、8代別当の大僧正定親とともに上洛した。「鶴岡八幡宮寺別当次第」によると、定親は宝治元年7月、宝治合戦で敗れた三浦泰村に円坐して京に追放された。この時、所職を捨てて同行した同宿の4人の供僧として、道範・円性・演親とともに良舜の名があげられている。
※2『正続院仏牙舎利略記』等によると、宋にわたって仏舎利を招来した僧侶の名は良真と記されており、実朝の感夢は、実朝が能仁寺の長老の再誕、良真が長老の侍者の再誕であるというものであった。
仲円
法華経衆・聖観音供衆一番を務める悉覚坊(如是院)の初代供僧。法流は寺門流で、信濃阿闍梨を称した。治承4年(1180)、北条時政の推挙により鶴岡供僧職に補任。頼朝の時代、鶴岡において長日、仁王法華等を務めた。建保2年(1214)3月15日、3代別当定暁により悉覚坊供僧に補任された。料所は信濃国遠山荘。平家一門である。
真弁
法華経衆・聖観音供衆一番を務める知覚坊(花薗院)の初代供僧。法流は東密で、知覚坊を号した。文治4年(1188)8月12日、梶原景時の推挙により頼朝が補任。平家一門。
顕信*
法華経衆・三部法華経衆一番を務める円乗坊(宝瓶院)の初代供僧。法流は東密で、二位律師を称した。平家門脇殿孫(教盛の孫)で、北条時政の沙汰により鶴岡供僧に補任。正治2年(1200)12月20日、頼家の時、2代別当尊暁により円乗坊供僧に補任されたが、建保7年(1219)1月27日、公暁の実朝暗殺に与同して改替。
猷弁※
法華経衆・三部法華経衆二番を務める実円坊(金勝院)の初代供僧。法流は山門流で、実円坊律師を称した。大納言平家一門である。建久3年(1192)4月5日、北条右京権大夫義時の推挙により円暁が補任。悪別当(公暁)に与力した疑いで改替されたが、訴訟により還補された。
※「供僧次第」によると、猷弁の弟猷円は貞永元年(1232)10月21日、実円坊(金勝院)2代供僧に補任されている。
義慶
法華経衆・三部法華経衆一番を務める宝蔵坊(海光院)の初代供僧。法流は山門流で、武蔵阿闍梨を称した。平家薩摩舎弟(忠度の弟)である。文治4年(1188)3月15日、鶴岡若宮において大般若経供養の導師を務める。大法会の始まりである。建久3年(1192)8月11日、頼朝により供僧に補任。寛喜元年(1229)8月20日に入滅。
[吾妻鏡]
文治3年(1187)1月8日-若宮供僧として鶴岡心経会の導師/同4年3月15日-鶴岡で梶原景時の宿願による大般若経供養の導師/建久3年(1192)3月19日-鎌倉幕府による後白河院初七日仏事の導師/同年8月9日-北条政子の御産気祈祷の験者/同4年3月13日-後白河院一周忌供養の一方頭
盛慶
供養法衆・聖観音供衆一番を務める寂静坊(増福院)の初代供僧。法流は寺門流で、弁律師を称した。平家一門である。神宮寺の堂僧。貞応2年(1223)12月19日に執行職に補任。鶴岡の御殿司(遷宮の際にご神体を担ぐ役)を兼務した。御殿司はもともと勝円が1人で行っていたが難儀をきたしたため、嘉禄2年(1226)11月21日の修理遷宮時に盛慶が初めて指添え役に補任され、ご神体を抱え奉った。宝治元年(1247)1月に60歳で入寂。
※「供僧次第」によると、盛慶の弟で弁阿闍梨を称した信豪は、仁治3年(1232)2月21日、8代別当定親から寂静坊(増福院)の2代供僧に補任。後に御殿司に任じられている。
尊念※
供養法衆・聖観音供衆一番を務める花光院(大通院)の初代供僧。法流は寺門流で、少納言僧都を称した。治承4年(1180)12月、鶴岡供僧職に補任。建久3年(1192)12月、執行職(八幡宮巡御影の順番を決めたり、法会の装束や仏具調達などを行う職)に補任。これが当社における執行職の始まりとなった。同10年2月5日、北条時政の推挙で円暁により花光院供僧職に補任された。平家一門である。寛元3年11月5日に95歳で死去。
[吾妻鏡]
建保7年(1219)1月29日-公暁による源実朝暗殺の与同の嫌疑を受けたが無実により供僧職を安堵
良弁*
供養法衆・聖観音供衆二番を務める静蓮坊(如意院)の初代供僧。法流は寺門流で、乗蓮坊中納言阿闍梨を称した。文治5年(1189)6月23日、佐々木四郎高綱の推挙により円暁が補任。平家一門の人である。建保7年(1219)1月27日、公暁の実朝暗殺に与同して改替された。
参考文献
塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(続群書類従完成会)/『群書類従 第4輯 補任部』「鶴岡八幡宮寺社務職次第」(八木書店)/『鎌倉僧歴事典』(八木書店)/和田英松著『官職要解』(講談社学術文庫)/龍粛訳注『吾妻鏡』(岩波文庫)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館)/五味文彦・本郷和人・西田友広編『現代語訳 吾妻鏡10 御成敗式目』(吉川弘文館)/中嶋和志著「鶴岡八幡宮における供僧の成立と役割」(法政史学)/川上淳著「鶴岡八幡宮における供僧の役割」