1. トップ
  2. 平家資料館
  3. 史料の中の平家
  4. 吾妻鏡巻第九~十二

本巻について

生き残った平家一門・残党の動向と没官領の処置、鶴岡における供僧の活動などが中心となる。その中で目を引くのは、3月の時忠の死である。この2か月後、忠快や信基、時実ら平家出身の僧侶や公家平氏の面々が一斉に赦免されている。時忠がもう少し長生きをしていれば、同時に赦免される可能性もあったのではないかと思えてならない。本巻のクライマックスは上総五郎兵衛忠光の捕縛・処刑だろう。永福寺の普請現場に紛れ込み頼朝暗殺を狙うという、歌舞伎の一場面のような劇的な逸話である。平家滅亡から4年を経てもなお、主家のために尽くそうとする忠光の執念に心を打たれるとともに、鎌倉幕府の将軍と御家人のようなギブ・アンド・テイクの関係を越えた、主従の絆の強さが見て取れる。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



文治5年(1189)

1月19日-武藤資頼の赦免

頼家の御方で儀式が行われ、藤原邦通が取り仕切ったが、平胡簶と丸緒のつけ方が分からなかった。捕虜として三浦義澄に預けられていた武藤資頼〈平氏の家人、監物太郎頼方の弟〉が知っているということで、頼朝から赦免され矢を整えて調進した。

2月22日-時実・信基の召還

頼朝が京に書状を送った。そこには、藤原泰衡・源義経の誅罰や義経に味方した者の処置のほか、平家縁坐の流人の召還について、僧侶や(平)時実(平)信基などの朝臣については何も問題がないことが記されていた。

3月5日-時忠の死

前大納言〈時忠卿〉が先月24日の未の刻に能登の配所で亡くなったと、今日関東に連絡が届いた。知恵に優れた廷臣であったため、先帝(安徳)の朝廷において、また平家在世時に諸事を輔佐した。「朝廷にとって惜しいことだ」と頼朝がいった。三善康信によると62歳であったという。

能登の時國家
時忠の末裔を称する能登時國家

3月13日-阿武郡の平家没官領

頼朝が11日に届いた院宣の請文を整えた。そこには、長門国阿武郡(山口県阿武郡・萩市)は平家の所領で、土肥実平が西国下向の時から知行していたことが記されていた。

閏4月30日-義経の死

義経が衣河館において藤原泰経の襲撃を受けて自害した。義経が経歴が紹介され、元暦元年8月26日に平氏追討使に任じる官符を拝領したことが記されていた。

5月17日-忠快の赦免

伊豆に配流されていた前律師忠快を赦免し、召し返すことを命じる宣旨が鎌倉に届いた。宣旨の発給は源通親・左大弁宰相親宗らが務めた。同時に召し返された流人として、前内蔵頭信基朝臣〈備後国〉・前中将時実朝臣〈ただし京外には出なかったという〕・前兵部少輔尹明朝臣〈出雲国〉・前僧都全真〈安芸国〉・前法眼能円〈法性寺前上座、備中国〉・前法眼行命〈熊野前別当、常陸国〉の名が記されていた。

7月19日-城長茂が奥州合戦に従軍

頼朝が奥州征伐に出陣した。この時、梶原景時が城四郎長茂は無双の勇士であり、囚人ではあるが引き連れていくべきことを進言し許された。その旨を伝えたところ長茂は大いに喜び、自身の旗を見たら逃亡していた郎従たちが集まってくるだろうと、周囲の人々に語ったという。

7月25日-熊谷直家が頼朝に伺候

頼朝が下野国古多橋の駅(栃木県宇都宮市)に到着した。頼朝は小山朝光らに熊谷直家を「本朝無双の勇士」と紹介し、平氏追討の時、一ノ谷をはじめとする戦場で、父とともに命をかけてたびたび戦ったと述べた。しかし、朝光は「従う郎従がいないから自分で戦っただけ」といって笑った。

7月28日-城長茂の軍勢

頼朝が新渡戸の駅に到着した。軍勢を把握するため手勢を報告させたところ、城四郎(長茂)の郎従は200余人であったので頼朝は驚いた。梶原景時は、もともと長茂の軍勢は数百人おり、本国(越後・会津)に近いので集まってきたのでしょうと述べたので、頼朝は上機嫌であったという。

8月9日-宮道国平が大友能直を援助

阿津賀志山で合戦が行われた。奥州合戦の前、中原親能は宮道国平を召して、初陣となる自身の猶子の大友能直に助成してほしいと頼んだ。国平は長井斎藤別当実盛の外甥で、実盛が平家に属して滅びた後、囚人となっていた。

8月18日-筑前房良心の赦免

安達盛長が預かっていた囚人の筑前房良心は、奥州合戦に従軍し物見岡の戦いで藤原泰衡の郎従らを討ったため、その功により赦免された。良心刑部卿忠盛朝臣の四代の孫で、筑前守時房の子である。屋島前内府(宗盛)が処刑された後、盛長に預けられていた。僧であったが武芸に練達していたので伴ったという。

9月18日-京都に奥州合戦の報告

頼朝が奥州合戦の事情を飛脚で京都に知らせた。このうち、捕らえた藤原基成について、たいした武士ではないが、平家の時も今回も朝威を軽んじている者であると記していた。




文治6年(1190)

4月11日に改元し建久元年となった

4月19日-平信国の知行について

伊勢大神宮造営の役夫工米の地頭の未納について頼朝が対処するよう命じた。そのうち、美作国は平大(少)納言信国(信範の子、信基の弟)の知行分で地頭は三善康清、但馬国については平大(少)納言が書状で直接山城守実道に師事したことが記されていた。

5月3日-一条能保の妻の仏事

勝長寿院で一条能保の妻の追善仏事が催され、信救得業(木曾義仲の右筆だった大夫坊覚明)が導師を務めた。頼朝と政子が聴聞し、前少将時家が導師の被物を取り、工藤祐経が馬を引いた。

7月11日-夜須行宗の本領安堵

頼朝が土佐国の住人夜須七郎行宗に本領安堵の下文を与えた。これは土佐冠者希義が討ち取られた時、怨敵蓮池権守(家綱)を討ち取って以来、度重なる勲功があったためである。

7月15日-平氏鎮魂の万灯会

今日は盂蘭盆のため、頼朝が勝長寿院に参り万灯会を修した。これは平氏滅亡の衆の黄泉を照らすためという。

8月9日-藤原邦綱の家

京の土地について奉書が鎌倉に届いた。そこには頼朝の宿所について、(藤原)邦綱卿(平盛子の後見人、大納言典侍の父)の東山の家を用いることが記されていた。

9月7日-曽我兄弟の来訪

故(伊東)祐親法師の孫の祐成が弟の筥王を伴って北条邸を訪れ、筥王は時政の前で元服して曽我五郎時致と称した。祐親法師は頼朝を射たが、その子孫は問題にするには及ばず、祐成は常に北条殿に参っていた。

9月18日-平家の赤旗

頼朝の上洛準備のため、飯富源太宗季(清盛の側近だった源季貞の子)が箙を作り献上した。端の革を逆に重ねていたため、頼朝が理由を聞くと、宗季は「赤革を表に重ねるのは、平家の赤旗・赤標に似ているので、下に重ねるのがよいでしょう」と答えたので頼朝は感心した。

9月20日-頼朝の滞在先

頼朝の上洛時の滞在地が故池大納言(頼盛)の旧居後に決定し、普請が開始された。

11月7日-頼朝の入洛

源頼朝が大勢の御家人を伴い入京し、六波羅の新御邸〈故池大納言頼盛卿の旧跡〉に到着した。

石清水八幡宮う
上洛時に頼朝が参詣した石清水八幡宮



建久2年(1191)

1月1日-千葉常胤が垸飯を献上

千葉常胤が垸飯を献上した。午の刻に頼朝が御所の南面に出てくると、前少将時家朝臣が御簾を上げた。

1月5日-弓始

御所で弓始が行われ、射手に対して頼朝が禄を下し、時家朝臣が下河辺行平に御剣を、北条義時が和田義盛に御弓矢を渡した。

1月17日-平家没官領の巡検

頼朝が伊勢・志摩に使者を派遣した。平家没官領まだ地頭を補任していない場所を巡検するためという。

2月15日-鶴岡若宮の臨時祭

鶴岡若宮の臨時祭が行われ、一和尚で若宮の供僧である安楽房重慶(平家一門)が導師を務め、布施として裏物(つつみもの)二つが下された。

1月17日-頼朝の雪見

頼朝が雪見のため鶴岡別当の坊に出かけ、佐貫広綱と前少将時家が供奉した。

1月21日-阿弥陀三尊の供養

頼朝が京で文覚に描かせた阿弥陀三尊の画像を持仏堂に安置し、供養の儀式が行われた。導師は安楽房重慶で請僧は3人。導師に布施として被物3重・野剣1柄が下され、時家朝臣と源高重が渡した。

5月3日-比叡山の強訴

佐々木定綱が比叡山の強訴により遠流に処される件について、頼朝が京に使者を派遣した。奏聞の文書には、頼朝が天台宗・法相宗に忠節を尽くしていること、天台座主明雲(清盛の出家の戒師)を殺害した木曾義仲を追討したこと、(平)重衡が南都を焼い僧徒を殺害したので、重衡を生け捕って南都で首をはねたことが記されていた。

5月8日-佐々木定綱の罪名が決定

佐々木定綱の罪名が決定し、官符の発給に少納言(平)信清(信範の子、信基の弟)が加わった。

5月12日-賀茂祭の記録

中原(大江)広元が先月20日、賀茂祭に供奉し、その間の記録を頼朝に進上した。その中に、後白河法皇の御願として近江国高島郡(滋賀県北西部)に5丈の毘沙門天像を安置し、近日供養の儀式が行われることが記されていた。それを聞いた三善康信が「その像は、去る養和の頃に仙洞で仏師院尊法印に命じて作り始めたものです」というと、頼朝は「このことは何度もうわさに聞いている。平相国(清盛)が在世の時から造立していたもので、推測するに源氏調伏のためであろう。まったく感心しない」と述べたという。また、その記録には賀茂祭に供奉した人々が記され、賀茂斎王の行列に従った典侍(内侍司の次官)として平宣子大納言平時忠卿の娘〉の名が記されていた。

8月15日-鶴岡放生会

鶴岡放生会が行われ、経供養の導師を安楽房重慶が務めた。

10月1日-奥州の牛

法住寺殿の牛屋に送るための駿牛が奥州から進上されたが、この牛は適当ではないと、前少将時家や三善康信らが申したため、馬を替わりにすることが定められた。

12月24日-法住寺殿移徙の儀式

京都から法住寺殿への移徙の儀式の記録が届き、その日、出仕した人々の中に平中納言〈親宗〉(時信の子)・右兵衛督〈(藤原)隆房〉(清盛の娘婿)・新宰相中将〈(藤原)成経〉(成親の子、維盛の妻の兄)らが参加した。盃酌の三献を平中納言〈親宗〉が行った。




建久3年(1192)

1月21日-上総五郎兵衛尉忠光の捕縛

頼朝が永福寺の普請現場を視察した。工事の間、土石を運んでいる人夫らの中に左眼が見えない男がいた。頼朝が怪しんだため、梶原景時が尋ねたがはっきりしなかった。そこで頼朝が佐貫広綱に目くばせをして縛り上げさせると、懐の中に1尺余りの打刀を忍ばせていた。また、左眼を見ると魚の鱗を目の上にかぶせていた。頼朝はいよいよ害心がある者と思い訊問すると、男は名乗って「上総五郎兵衛尉(忠光)である。幕下を殺害するために数日間、鎌倉中を徘徊していた」と述べたので、和田義盛に預けて同意の輩を尋問するよう命じた。

2月24日-忠光の梟首

六連(横浜市金沢区)の海辺で囚人の上総五郎兵衛尉忠光が梟首され、和田義盛が奉行した。(忠光は)数日来、食事を絶っており、訊問したところ「同意の者はいない。ただし、越中次郎兵衛尉盛継が昨年頃、丹波国に隠れ住んでおり、彼も同じく会稽の志を持っているだろうが居場所は知らない。これまでも(居所を)一か所には定めていない」と述べたという。

3月19日-後白河の初七日

去る13日に亡くなった後白河法皇の初七日の仏事が幕府の御所で行われ、導師を義慶房阿闍梨(忠度の弟)が務めた。

3月16日-後白河の仏事

後白河法皇の14日目の仏事が行われ、導師を安楽房(重慶)が務めた。

4月2日-政子の御着帯

北条政子の御着帯の儀式が行われ、御加持を安楽房阿闍梨(重慶)が務めた。今日以後、毎日安産の祈祷を行うよう頼朝から鶴岡供僧に命じられた。

5月1日-紀藤大夫が狂乱

鶴岡八幡宮に供え物をしたところ、紀藤大夫が狂乱したので、すぐに義慶房と題学房が加持を行ったという。

6月13日-頼朝が永福寺の普請を視察

頼朝が永福寺の普請現場を視察し、畠山重忠や佐貫広綱、城四郎(長茂)らが梁や棟を引いた。それぞれ力士数十人分の力仕事を一度に果たしたという。

7月27日-勅使の献盃

去る12日、頼朝が征夷大将軍に任じられたため、二人の勅使を御所に招いた。献盃が行われ、前少将(時家)や源範頼、大内惟義らがその場に伺候した。

8月5日-将軍家の政所始

将軍補任後、政所始(文書を発給する儀式)が行われた。千葉常胤がまず下文を給わったが、頼朝の花押のあるものが欲しいといい許された。その下文には、治承の頃、平家が謀反を図った際、常胤が真っ先に駆け付けたことが記されていた。

8月9日-実朝の誕生

政子に出産の気配があったため、御加持を円暁が、験者を義慶房と題学房が務めた。巳の刻に男子(実朝)を出産すると、御家人たちが馬や剣を献じ、御加持と験者(義慶房・題学房)がこれを与えられた。全成の妻阿波局が乳母として参上し、千万(千幡)君と名づけられた。

11月25日-熊谷直実の逐電

熊谷直実が久下直光との訴訟相論に敗れ、髻を切って逐電した。かつて直実は直光の代官として京都大番役を務めた。しかし、代官という理由で無礼な態度を取られたため、鬱憤を晴らすべく新中納言〈知盛卿〉の家人となって、長い年月を送った。石橋山の戦いでも平家に味方して戦ったが、その後は源家に仕えて武功をあげた。しかし、直光を捨てて新黄門(知盛)の家人になったことが恨みの原因となり、直光との境界紛争に及んだという。今日、永福寺の供養が行われ、導師に追加の布施の銀剣を渡す役を前少将時家が務めた。

12月14日-平家没官領の処置

一条能保の書状が鎌倉に届いた。亡妻の遺領20か所を子どもたちに相続したこと、それらは平家没官領の摂津国福原荘(神戸市中央区・兵庫区)、播磨国山田荘(神戸市垂水区)などであったことが記されていた。

神戸市垂水区
山田荘があった垂水区舞子

12月28日-伊勢神宮領の年貢

伊勢大神宮領の武蔵国大河戸御厨(埼玉県北葛飾郡松伏町)の年貢について、員数を増やし、神主の土地は800余町となった。平家が知行していた時は、本宮御上分の国絹113疋は神用に使えなかったが、源氏の時代となり公私の祈祷のために正官物をすべて免除された。


参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡4 奥州合戦』(吉川弘文館)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡5 征夷大将軍』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(二)(三)』(岩波文庫)/塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(続群書類従完成会)