本巻について
戦後処理も落ち着き、平家関連の記事が少なくなっていく時期である。佐伯景弘に宝剣の捜索が命じられたこと、平家貞が貴海島を追討した故事、城長茂の赦免などが目を引くが、中でも哀れを誘うのが千手前の死去だ。重衡への恋慕の思いが断ち切れず発病したことが記されており、殺伐とした乱世の中、数少ない平家の公達のロマンスが垣間見えて嬉しい。また、たびたび鶴岡宮の法会を務める平家一門の義慶が初めて登場するのも本巻である。なお、巻末には知盛が屋島と彦島の中間の山口県周防大島町に城郭を築いていた記事が載せられており、平家の防衛体制を知る上でも貴重な記述といえる。
[凡例] 平家の一門・血縁者・家人は赤で示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。
文治3年(1187)
2月1日-頼朝が建礼門院に所領を進上
頼朝が没官領から2か所を建礼門院(徳子)に進上した。摂津国真井・島屋荘(不詳)で、前は八条前内府(宗盛)が知行していたという。
2月9日-大夫属定康の所領安堵
大夫属定康の近江の所領が安堵された。平家の時代、源氏に味方したため没収され、滅亡後は近江守護の佐々木定綱に押さえられていたため、定康は鎌倉に参上して功労を主張したことが認められたのである。平治の乱の際、美濃で源義朝と行き会った定康は、平氏の追捕から逃れるために氏寺の天井にかくまったという。
3月8日-聖弘が頼朝と対面
南都の聖弘が義経のための祈祷を行ったとして鎌倉に呼ばれた。頼朝と対面した聖弘は、義経が頼朝から平家の征討を命じられた際、合戦が無事に終わるよう祈祷を頼まれたのは報国の志であり、その後の祈祷も義経の逆心をなだめるためであると述べ、兄弟が親密にすることが治国のはかりごとであると諭した。
3月10日-夜須行宗の訴訟
土佐の夜須七郎行宗と梶原景時が問答を行い、頼朝が裁決した。行宗は壇ノ浦の戦いの時、平氏の家人である周防の住人岩国二郎兼秀・同三郎兼末らを生け捕りにした。その功により褒賞されるよう言上してきたが、景時は合戦の際、夜須という者はおらず、兼秀は自ら投降してきたと主張。しかし、合戦の際、行宗と同船していた春日部兵衛尉が証人となり行宗の主張が認められ、景時は讒訴の罪で道路の整備を命じられた。
6月3日-宝剣捜索の祈祷
一昨年の平氏討滅の時、壇ノ浦の海上で紛失した宝剣の捜索のための祈祷が行われた。厳島神主の安芸介(佐伯)景弘に命じて漁夫に探させることになり、そのための糧米の調達が西海の地頭らに命じられた。
7月3日-橘維康の仕官※
山城守橘維康が仕官するため京都から鎌倉に参上した。池亜生禅門(頼盛)が推挙したという。
※頼盛は前年6月に死亡しており、故人であることが記されていないため年次の誤りの可能性もある。
8月15日-諏方大夫盛澄の流鏑馬
鶴岡放生会が行われ、諏方大夫盛澄が流鏑馬の妙技を見せた。盛澄はかつて平家に属して長年在京していたため頼朝の勘気に触れて囚人となっていた。頼朝は盛澄を断罪すると藤原秀郷の秘伝が廃れると心配したが、盛澄の射芸に感動し罪を許した。
9月13日-摂津の在庁の措置
摂津の在庁官人と御室の御領について法が定められた。京都に伝えられた状には、摂津国は平家追討の跡として安堵の輩はいないと書かれていた。
9月22日-貴海島の追討
蔵人所衆の中原信房が、天野遠景とともに貴海島(喜界島または硫黄島)追討の命を受けて九州に下向した。古来、この島に船で渡る者はいなかったが、平家が在世の時、薩摩の阿多平権守忠景(薩摩国阿多郡を本拠とする鎮西平氏。源為朝の妻の父)が勅勘を受けてこの島に逃亡したので、その追討のため筑後守家貞が使わされた。家貞は軍船を用意して数度も渡海を試みたが渡れず、むなしく帰洛した。この度、義経に味方した輩が隠れ潜んでいるという疑いが向けられたため追討が行われることとなった。
10月3日-勅答が届く
京にあてた奏聞に対する勅答が鎌倉に届く。そのうち、群盗への対応の条に、白河・鳥羽院の時代も源氏と平氏は相並んで追捕の官人となったことが記されていた。
10月9日-南都への返書
南都の衆徒の書状に対し頼朝が返書を送った。そこには、平家が朝廷に反逆するあまり大仏の廟壇が焼失したこと、そこで征伐の心を起こして、ついに平家の凶賊を誅したこと、それは(平家が)朝敵・仏敵であったためであるとが記されていた。
11月25日-山口家任の本職安堵
但馬の山口家任は弓馬の名手であったが義仲・義経に属したため捕らえられた。頼朝の尋問に対して家任は、父家修は譜代の源氏の家人で源為義に仕えたが、平家が天下を取った時にすべてを失ったと述べ、為義の下文を頼朝を見せたので本職に安堵された。
12月10日-橘為茂が田所職を与えられる
橘為茂が北条時政の計らいで富士郡(富士山の南西山麓)の田所職を賜った。これは父の遠茂が平家の味方となって治承4年に頼朝を射たため、これまで囚人とされていたためである。
文治4年(1188)
1月8日-義慶房が心経会の導師を務める
鎌倉で心経会が催された。導師は鶴岡八幡宮の供僧(供奉僧の略。本尊に仕え所領などの得分を与えられた)義慶房(忠度の弟)、請僧(招請された僧)は5人で、法会後に頼朝から布施を賜った。
2月18日-宇佐宮の造営
宇佐宮の造営について、大宮司(宇佐)公房に罪科があるので、これに命じるべきであると頼朝が奏上した。
3月15日-義慶房が大般若経供養の導師を務める
鶴岡八幡宮で大般若経の供養が行われた。頼朝が武田有義に御剣の役を命じたところ渋ったため大いに怒り、「先年、小松内府(重盛)の剣を持つ役を務めたことは洛中で有名である。これは源家の恥辱ではないか。彼(重盛)は他門の者だが、自分は一門の棟梁である」といって、剣を小山朝光に与えたので有義は行方をくらましたという。頼朝と随兵の到着後、儀式が行われた。導師は義慶房阿闍梨〈伊予と号す。若宮供僧の最上席の和尚〉で、前少将(平)時家が布施の銀剣を渡した。
3月17日-重盛の所領の措置について
頼朝が諸荘園について奏上した。その中で、陸奥国白河荘(福島県白河市・西白河郡)〈(藤原)信頼の知行で、後に小松内府(重盛)の領〉について、不輸の地であるが年貢を納めるべきか、東大寺造営を負担すべきかを後白河院に問うた。また、鶴岡若宮の伊予阿闍梨義慶が招きによって児童(ちごわらわ)を引き連れて御所に参入し、酒宴は歌舞におよんだ。
4月9日-義経捕縛の宣旨
藤原泰衡に義経の捕縛を命じる宣旨と院庁の下文が鎌倉に届く。そこには義経が出羽国で謀反を起こしていることが記され、院庁下文には藤原兼雅(清盛の娘婿)、中山忠親(時忠の娘婿)、参議左大弁兼丹波権守平朝臣(親宗)、冷泉隆房(清盛の娘婿)、平親国(親宗の子)らの署名があった。
4月10日-良弘の赦免
去る元暦2年5月20日、平氏の縁坐により阿波に流されていた前法印大僧都良弘が、去る3月30日に召し返されたとの報告が鎌倉に届く。
4月22日-千手前が気絶
北条政子の女房〈千手前と号す〉が頼朝の御前で気絶したが、すぐに意識を取り戻した。
4月23日-法華経講讃
頼朝の持仏堂で法華経講讃が始められ、唱導の師を阿闍梨義慶が務めた。
4月25日-千手前が死去
今日の明け方、千手前が死去した〈年は24〉。性格は穏やかで人々は惜しんだ。以前、故三位中将重衡が鎌倉に来た際、思いがけず親密な関係になり、彼(重衡)の上洛後も朝夕恋慕の思いはやまず、情念が積み重なったことが発病の原因だったのではないかと人々は疑ったという。
6月4日-諸荘園の処置
諸荘園の地頭についての奏聞に対する勅答が鎌倉に届く、そのうち、相模国山内荘(鎌倉市・横浜市戸塚区)などは平家の時代に勝手な処置がなされたことが記されていた。
9月14日-城長茂の赦免
城四郎長茂は平家の一族として関東に背いたので、囚人として梶原景時に預けられていたが、師僧の尊南坊僧都定任のとりなしにより御家人に列せられた。御家人たちが侍所に2列に座っていたところ、長茂が入ってきたので皆が注目すると7尺(約2メートル)の大男であった。白い水干に立烏帽子をかぶり、御家人の間を進むと、頼朝がいる簾中を背にして横敷(上座に敷かれた畳)に座った。梶原景時がそこは頼朝が座る場所だというと、存じませんでしたと言って退出したので、以後、定任は取りなしをしなくなったという。長茂〈本名は資茂〉は鎮守府将軍余五維茂〈貞盛朝臣の弟(実際は甥)〉の子、出羽城介繁成の7代の裔孫である。維茂は勇敢で宣旨を下される前から人々に将軍と呼ばれ、武将でありながら毎日法華経八軸を転読し、法華玄義・法華文句・摩訶止観を一見していた。また、恵心僧都源信に面会し極楽往生について語っていた。繁成は生後間もなく行方不明となり、維茂は悲嘆にくれながら4年が経ったが、夢想によって探し求めたところ狐塚(狐が住む丘)で見つけて連れ帰った。その狐が老翁に姿を変えて突然やって来て、刀と抽櫛(挿櫛)を繁成に授けて「私の家で養育していたら日本の国主になることができた。今となってはその位にはつけない」と言った。長茂はその遺跡を継いでその刀を給わり、今でもこれを所持しているという。
11月22日-藤原重頼の押領
今年7月13日、隠岐守源仲国(後白河院の近臣。笛の名手で高倉天皇の命で嵯峨に向かい小督を連れ戻した逸話で知られる)が訴えた宮内権大輔藤原重頼(二条院讃岐の夫)の押領について、頼朝が隠岐の在庁に下文を与え、犬来(島根県隠岐郡隠岐の島町犬来)・宇賀牧(同西ノ島町宇賀)以外の重頼の知行を国衙の支配とするべきことを命じた。この所領は平家領だったので重頼を預所に補任したが、犬来・宇賀以外は平家領ではないと在庁らが国司に訴えたためである。
12月11日-義経追討の下文
義経追討の宣旨、藤原泰経らに義経の逮捕を命じる院庁の下文がふたたび出され、参議左大弁丹波権守平朝臣(親宗)らが署名した。
12月12日-島末荘の由緒
京都から中原(大江)広元の使者が鎌倉に到着し、広元の知行する周防国島末荘(山口県大島郡周防大島町)の由緒を院に上奏した旨を告げた。そこには、島末荘は平氏が謀反を起こした時、新中納言(知盛)が城を構えて居住し、数か月を送ったので島民はみな同意していた。それ以降は、頼朝の命で地主職が置かれてきたことが記されていた。
参考文献
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡3 幕府と朝廷』(吉川弘文館)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡4 奥州合戦』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(二)』(岩波文庫)/山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(続群書類従完成会)