本巻について

本巻は平時実の配流、平家没官領の処置、平家残党の追捕など、平家追討戦の戦後処理が主なテーマとなる。そうした中で、京でひっそりと亡くなった頼盛、鎌倉で覚悟の断食の末に亡くなった盛国など、一門・家子の痛ましい死が続く。特に盛国については、死亡記事に合わせて出自・経歴も載せており、鎌倉においてもリスペクトされていた様子がうかがえる。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



文治2年(1186)

1月3日-頼朝の直衣始

頼朝が去年、従二位に叙せられて初めての直衣始の儀式を催し、一条能保、前少将時家らが参会した。出席者の一人、東胤頼は平家が天下の権を握っていた時、京都にいたがへつらうことがなく、師の文覚が伊豆にいた時に同心して頼朝に挙兵を勧めたという。

1月5日-時実の帰京が決定

前中将時実朝臣は流人となったが配所に赴ないばかりか、義経に同道したため生け捕りにされて関東に下され、美濃藤次安平の西御門(大倉御所の西)の家に置かれていた。頼朝が事情を聞いたところ明確な弁明がなかったが、幕府では刑を定めがたいので京都に送り返すことに決定した。

1月7日-親宗の解官

京都から除目、解官・配流の決定がもたらされ、源通具(源通親の子、母は平通盛の娘)らが昇進、参議平親宗らが解官、中山忠親(妻は時忠の娘)らが議奏公卿となった。

1月19日-親宗の賄賂

鎌倉に来ていた神祇大副の使者が帰った。これは去年、神宮奉行の(平)親宗卿らが賄賂を取って祭主の人事を行ったことを訴えに来たものであった。

2月2日-頼朝が親光の復職を奏上

頼朝が国司のことについて京都に上申した。そのうち、前対馬守親光(通盛・教経の叔父)は在任中、年貢を京都に送ろうとしたところ平家に交通路を遮断されたことから、祈祷のために神社の整備費用にあてたという、本人の申状にもとづき復職させるように要請した。

2月7日-時実の配流先が決定

北条時政の使者が鎌倉に到着し、先月23日に前中将時実朝臣を上総に配流するという官符が下されたことを告げた。

2月27日-九条兼実を摂政に推挙

京都で九条兼実を摂政に推挙する旨が後白河法皇に奏上された。今の摂政近衛基通(妻は清盛の娘寛子)が平氏の縁人だったことから幕府と疎遠であったうえ、去年、義経に頼朝追討宣旨を与えたためである。

3月2日-大仏師成朝の愁訴

南都の大仏師成朝が勝長寿院の仏像造営のため関東に下っている間に、同僚の院性に職を奪われかけていると幕府に訴えた。本来、興福寺の仏像は定朝の子孫である大仏師が造るべきであるのに、平家との縁によって職を得た仏師たちが奉仕している、彼らの関与を停止してほしいという訴えを受け、頼朝は京都に成朝を推挙した。

3月8日-丹波国五箇荘について

源頼兼(源三位頼政の次男)の丹波国五箇荘(京都府南丹市)について、頼朝が京都に取り次ぐことが決まった。もと頼政の所領で、以仁王の乱の後、屋島前内府(宗盛)が知行していた。その後、没官領として頼兼に与えられたが、院領にするよう法皇から命令があったためである。

3月12日-関東御分国の年貢未納一覧が到着

関東御分国のうち年貢未納の荘園一覧が鎌倉に到着した。その中には近年、(藤原)忠清法師領だった大穴荘園(長野県北安曇郡池田町陸郷)、藤原隆季(妹経子は重盛の正室)の佐味荘(新潟県上越市)、藤原範季(妻は教盛の娘教子)の中宮(新潟県上越市板倉区大字中之宮か)も含まれていた。

3月26日-篠村荘が延朗上人に寄進される

丹波国篠村荘(京都府亀山市篠町)が延朗上人(源義親の孫)に与えられた。もとは三位中将重衡卿の所領で、義経から上人に寄進されたものであった。

4月3日-安能僧都が平家の祈祷を行う

安楽寺(福岡県太宰府市)の別当安能僧都が平家のために祈祷していたことが鎌倉に伝わってきたので、糾明するよう京都に伝えられた。宇佐大宮司公通の書状が証拠として添えられた。

4月4日-長谷部信連が御家人となる

以仁王の侍だった長谷部信連は、宮が平家の讒言により配流の官符を受けた際、検非違使の追捕を防いで宮を三井寺に逃がした。その信連が鎌倉に参上し御家人に加えられた。

4月20日-平家の摂関家押領

摂関家領の処置について頼朝が京都に伝えた。その内容は、近衛基通は白河殿(平盛子)の所領と称して摂関家領を横領したのは不都合なことある。平家の時代、藤原基実の後妻である白河殿の所有となり、藤原基房はわずかに氏寺の所領だけ知行したのは邪まな処分であり、代々の家領は摂政の九条兼実が支配すべきである、というものだった。また今日、行家・義経が洛中で比叡山の悪僧と結託しているという噂があるので、悪僧らを捜索すべきことを吉田経房に伝えた。このため、源為頼〈もと新中納言知盛卿の侍、故為長(清盛の腹心の一人)の親類〉が使節として上洛した。

5月2日-頼朝が親光の復任を要請

頼朝が前対馬守親光を復任させるよう重ねて京都に伝えた。親光は在任中、平氏が九州に下向した際、屋島に参上するよう命じられたにもかかわらず従わなかった。そこで少弐(原田)種直の郎従が追討しようとしたため高麗へ逃亡し、彼の氏族の滅亡後、上洛した。そのため、頼朝から復任するよう推挙したが、先の除目にももれたためである(28日に還任)。

6月9日-安田荘の支配

議奏公卿の勅答が鎌倉に届いた。その中で、播磨の武士の押領した荘園について、播磨守護の梶原景時の申状によると、安田荘(兵庫県西脇市・多可町一帯)は領家である若狭局(平正盛の娘政子、建春門院滋子の乳母)から預かったと称しているが事実に反するとし、景時の一味が国務を妨害していることを訴えた。

6月15日-安能僧都の弁明

安楽寺別当の安能僧都が平家に味方しているとの噂により更迭されようとしていた。安能は使者を出して弁明し、在職中に寺を興隆させたと主張し、起請文や宣旨などの証拠書類を提出したという(安能は26日に死去-8月28日条)。

6月18日-頼盛が死去

水尾谷藤七が使節として上洛した。去る2日、入道前池大納言〈頼盛〉が亡くなったので、その旧宅に弔問させるためであるという。

6月29日-林崎御厨の地頭職の停止

伊勢国林崎御厨(三重県鈴鹿市林崎町)は平家に味方した(富田進士)家資の所領として平家没官領に加えられた。しかし、伊勢神宮がこれを訴えたため、地頭職を停止する命令が下された。頼朝の下文には、「謀反人家資の知行であったため宇佐美実政を地頭に補任したが、神宮の訴えにより支配を停止する、ただし神宮が本人(家資)を再度補任すると不都合なので、早く神宮の支配とせよ」と記されていた。

7月7日-権門領の地頭職停止

平家没官領や凶悪な者が隠れ住むところを除き、権門の荘園の地頭職を停止することが京都に伝えられた。

7月24日-平家の怨霊鎮魂

後白河法皇の御願として、平家の怨霊を鎮めるために高野山に大塔が建立され、去る5月1日より厳密の仏事が行われた。その供養の料所として備後国太田荘(広島県世羅郡世羅町)が寄進された。

7月25日-盛国が死去

大夫尉〈伊勢守〉平盛国入道は、去年鎌倉に連行されて岡崎義実に預けられていた。日夜一言も発することなく、いつも法華経に向かい、食を絶っていたが、今日ついに亡くなった。頼朝はこれを聞き、その心中は感心すべきであると述べたという。(盛国は)下総守季衡(正度の子、正盛の伯父)の七男で、平家の氏族である。去る承安2年10月19日に出家し、今年74歳であったという。

7月27日-京都の平家没官領の処置

中原(大江)広元が去る19日に没官された京都の家地の目録を頼朝に進上した。一条能保に与える所領として(平)信兼の家地〈揚梅〉、平家の領〈正親町、重衡卿領〉、藤原親能に与える一所〈信兼一家の地、揚梅南朱雀西〉、北条時政に与える一所〈綾小路北河原東、(藤原)景高(宗盛の家人)領〉、土肥実平に与える一所〈揚梅、信兼領〉、近衛局に与える一所〈二条南室町東、経盛卿領〉、南無阿房に与える一所〈堂敷地、高倉東八条北、故平内尉(平内左衛門尉家長)領〉が記されていた。

閏7月2日-頼朝が草野永平を推挙

頼朝が草野大夫永平を筑後の在国司・押領使に推挙した。平家が朝廷に背いたとき、九州の者の多くは彼の逆徒に従ったが、筑後の草野永平は朝廷に尽くしたためである。

閏7月22日-頼朝が平康頼を推挙

前廷尉平康頼法師が、散位の元平氏家人が知行していた阿波国麻植保(徳島県吉野川市)の保司に任じられた。尾張国野間荘(愛知県知多郡美浜町野間)にある義朝の墳墓は、死後、草木の覆うありさまであったが、康頼が水田30町を寄付して堂を建て、6人の僧に念仏を唱えさせた功に報いるためであるという。

大御堂寺にある平康頼の墓
野間の大御堂寺にある平康頼の墓

8月6日-草野永平が在国司となる

草野永平が在国司・押領使に任じられた旨の院宣が到着した。平家が朝廷に背いたとき、朝廷に忠義を尽くしたためである。

8月7日-草野永平に恩賞

草野永平が所職・所領を安堵されたうえ恩賞を賜った。平家に従わず朝廷と源家に味方したからである。

9月25日-吉助の濫妨

院の召使則国の書状が鎌倉に到来した。そこには紀伊国広・由良荘(和歌山県由良町)の藤三次郎吉助丸が院宣に背いて使者に暴力をふるい逃亡したこと、吉助は貞能法師の郎従高太入道丸の弟で蓮華王院領を押領しようとしたことが書かれていた。

11月24日-平家旧領の地頭の課役の停止

10月8日宣旨が先日到来し、今日、それに応じる頼朝の請文が京都に送られた。平氏追捕の後の所領に補任した地頭が課役を課し、役人たちを煩わしているとの国司・領家の訴えを受けて年貢を停止することを命じたものであった。宣旨には、平氏追伐の後、その旧領に補せられた地頭が、勲功の賞と称して課役・検断を行っているという、国司・領家からの訴えがあったので武家に命じて、現在の謀反人の旧領以外、地頭の関与を停止する旨が書かれていた。


参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡3 幕府と朝廷』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(二)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄』(講談社学術文庫)/高橋昌明著『平家の群像 物語から史実へ』(岩波新書)