本巻について

屋島・壇ノ浦の戦いと平家の滅亡、義経と頼朝の対立、宗盛と頼朝の対面、宗盛・重衡の処刑、時忠の配流という激動、圧巻の1年である。屋島の戦いは『平家物語』との類似性が指摘されており独自性はないが、壇ノ浦では安徳の入水や経盛の出家など、物語との違いを見せている。華々しい合戦記事の合間に出てくる小ネタも要注意だ。熊野別当湛快の娘と平忠度の再婚、院御所の重宝の御剣を持ち出した清経の逸話、平知盛と原田種直が対馬に圧力をかけ遠征軍を派遣していたことなど、興味深い記事が多い。年末には平時実が鎌倉に下向しており、記事にはないが弟時家との邂逅もあったと思われる。どのような思いで二人が対面をしたのか、想像は尽きない。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



元暦2年(1185)

8月14日に文治元年となった

1月6日-頼朝が範頼に宗盛の生け捕りを命じる

平家追討のため西国遠征に向かった平範頼から、兵糧が絶えて御家人の間に厭戦気分が漂っているとの報告が鎌倉に届く。頼朝は返書を送り、「九州の武士に憎まれぬように行動せよ、平家が常に京都をうかがっているので馬は送らない、屋島にいる・大やけ(安徳天皇)二位殿(平時子)や女房達を誤りなくお迎えせよ、二位殿大やけとともにあの世に向かわれるかもしれない。帝王にかかわることは、木曾義仲が円恵法親王を討って運が尽きたように、平家は以仁王を討って滅びようとしている。よくよく準備して敵を逃さぬようにせよ。内府(宗盛)は極めて臆病なので、自害などはしないだろうから生け捕りにして上洛せよ。かえすがえす大やけのことは不安である」などと記し、九州の武士を加えて屋島を攻めるように命じた。さらに九州の武士に下文を出し、御家人として範頼の命に従い、朝敵平家を追討すべきことを命じる。

1月12日-範頼が壇ノ浦に到着

範頼が周防から赤間関に到着した。平家を攻めるため渡海しようとしたが、兵糧も船もなく逗留は数日におよび、和田義盛すら鎌倉に帰ろうとした。

2月1日-葦屋浦の戦い

範頼が北条義時、下河辺行平、渋谷重国らとともに豊後に上陸すると、葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町西浜町・白浜町・幸町一帯)で大宰少弐(原田)種直とその子息賀摩兵衛尉(種益)らが随兵を率いて戦いを挑んできた。彼ら(種直ら)は重国に射られ、美気三郎敦種(原田種直の弟)は行平に討ち取られた。

2月5日-平氏追討を名目とした兵糧米徴収が横行

中原久経と近藤国平が鎌倉の使者として上洛した。平氏追討が行われていることから、兵糧米の徴収を理由に各地の武士が畿内近国で狼藉を行っているという訴えがあったため、平家滅亡を待たず、さしあたり狼藉を停止させるためであった。

2月13日-武田信光の手紙

平家追討を祈って鶴岡八幡宮で鎌倉中の僧侶により大般若経が転読された。この日、武田信光の書状が九州から届き、平家追討の計略をめぐらすために長門に入ったが飢饉で兵糧がないため安芸に退却したい、九州攻めも船がないからできないという。頼朝は返書をしたため「九州攻めの時期が悪いのなら、まず四国にわたって平家と合戦せよ」と命じた。

2月14日ー頼朝が範頼を督励

範頼から兵糧が尽きて周防に戻ったという知らせが鎌倉に届く。頼朝は返書をしたため「兵糧を送ったので待て。平家は故郷を出て旅を重ねているが、それでもなお軍備を整えて励んでいる。まして追討使なのだから勇敢の気を示せ」と命じた。

2月16日-屋島と彦島を固める平家

関東の軍兵が平氏追討のため讃岐に赴いた。義経が先陣となり本日酉の刻に出航。見送りに来た高階泰経は「まず次将を送るべきでは」と提案したが、義経は「特に思うところがあり、先陣をきって命を捨てようと思います」といって進発した。平家は陣を2か所においていた。前内府(宗盛)は讃岐国屋島を城郭となし、新中納言〈知盛〉は九州の官兵を率いて門司関を固め、彦島(山口県下関市彦島)に軍営を定めて追討使を待ち受けていたという。

2月18日-桜庭介良遠の敗走

義経は昨日、渡辺(大阪市北区・東区・福島区一帯)から渡海しようとしたところ、にわかに暴風が起こり、船の多くが破損した。義経は「追討使が風波の難を顧みてはならない」といって丑の刻に5艘の船で出航。卯の刻に阿波国椿浦(徳島県阿南市橘湾の付近)に着いた。通常ならば3日かかる海路であった。義経は150余騎を率いて上陸すると、阿波の住人近藤七近家を案内役として屋島に向けて出陣。途中の桂浦(勝浦とも。阿南市の勝浦川河口か)において桜庭介良遠散位(田口)成良の弟〉を攻めたので、良遠は城を捨てて逃げたという。

2月19日-屋島の戦い

鎌倉で勝長寿院の建立始めの後、三河国竹谷荘(愛知県蒲郡市竹谷町)と鎌形荘(同鎌形)について審議があった。熊野別当湛快が支配し娘に譲与した荘園である。この女子は行快僧都(源為義の外孫)の妻となり、その後、前薩摩守平忠度朝臣に嫁いだ。忠度が一ノ谷で殺された後、両荘は平家没官領として頼朝に与えられたが、行快の訴えにより湛快の娘に返却された。この日の辰の刻、義経は屋島内裏の向かいの浦に到着し、牟礼(高松市牟礼町)と高松(同高松町)の民家を焼き払った。そのため先帝(安徳天皇)は内裏を出て、前内府(宗盛)は一族を率いて海上に逃れた。義経が田代信綱、伊勢義盛らを伴い汀に馳せ向かうと、平家も船を出して矢を射合った。この間、佐藤嗣信・忠信、後藤実基・基清らが内裏と内府(宗盛)の宿所をはじめとする舎屋を焼き払った。越中二郎兵衛尉盛継上総五郎兵衛尉忠光らが船から下りて宮門の前に陣を張り合戦する間、佐藤継信が射殺された。義経は悲しみ、大夫黒という名馬を布施として手厚く供養した。同じ日、住吉神社の神主が上洛して、去る16日に、第三神殿から鏑矢が出て西方へ飛んでいったことを報告した。この間、鎌倉で追討の祈りを行っていたので、霊験が現れたのだろう。

屋島古戦場跡
屋島山頂から古戦場と志度湾を望む

2月21日-平家が志度に退却

平家は讃岐の志度寺(香川県さぬき市志度)に引きこもった。義経は80騎でそれを追っていくと、平氏の家人の田内左衛門尉(田口教能)が義経に帰伏した。河野通信は30艘の兵船を整えて加わった。

3月2日-原田種直の討ち死に

前夜、渋谷重国の飛脚が鎌倉に着き、範頼とともに真っ先に豊後に渡り(原田)種直を討ったことを伝えた。今日、山城の精進御薗(天皇のための菜園)の給人(所領の一部を与えられた人)である景清(悪七兵衛か)の妨害を停止するよう頼朝が命じる。

3月7日-東大寺の復興開始

頼朝が南都の衆徒に御書を送り、東大寺の修造を心を込めて行うよう命じ、奉加物を大勧進の重源に送った。御書には、東大寺が平家の乱逆によって破滅したのは、その積悪の至るところであると述べられていた。

3月8日-義経の使者が到着

義経の飛脚が鎌倉に到着し、去る17日、150余艘で阿波に向かい合戦を遂げ、平家に従う兵を誅したこと、19日に屋島へ向かったことを告げた。この使者は合戦の結果を待たず鎌倉に向かったが、播磨で振り返ったところ、屋島の方で黒煙があがっていたため、合戦が終わり内裏が焼けたことを確信したという。

3月9日-豊後の庶民が逃亡

範頼が鎌倉に使者を送り、平家の拠点の近くなので何とか豊後に着いたが、庶民はことごとく逃亡したこと、帰りたいという和田義盛らを説得して渡海させたこと、熊野別当湛増の配下が義経の命で九州に来る(事実ではなかった)ことに対する不満を伝えた。

3月13日-対馬前司親光の訴え

頼朝の外戚である対馬前司の藤原親光(資憲の子。姉妹は教盛の妻となり通盛・教経を生んだ)から、在任中、平氏に襲われたという情報が入り、迎え取るよう範頼に使者を出した。

3月21日-船所の五郎正利が船を献じる

義経が平氏を攻めるため壇ノ浦に向けて出陣しようとしたところ、雨で延期となった。周防の船所の舟船奉行である五郎正利が数十艘の船を献じたので、義経は正利を御家人とする文書を与えたという。

3月22日-平家が彦島から出陣

義経が数十艘の兵船で壇ノ浦をめざして船出した。昨日から船を集め、計略をめぐらしていたという。周防の大島の津(山口県周南市)で三浦義澄と合流。そこで先登(先陣)を命じられた義澄は、平家の陣から30余町にある壇ノ浦の奥津(下関市豊浦村に属する満珠・干珠島)に到達した。これを聞いた平家は彦島を出発し、赤間関を通過して田之浦(福岡県北九州市門司区)に進出した。

3月24日-壇ノ浦の戦い

長門国赤間関の壇ノ浦の海上で源平両軍が向かい合った。それぞれ3町を隔てて漕ぎ進み、平家は500余艘を三手に分け、山鹿兵藤次秀遠松浦党らを大将軍とし、源氏の将に戦いを挑んだ。午の刻になって平氏が敗北に傾くと、二品禅尼(時子)は宝剣をもち、按察局(西園寺公通の娘か)が先帝(安徳天皇)を抱いてともにに没した。建礼門院(徳子)〈藤重の御衣〉は入水したところを渡辺党の源五馬允が熊手で引き上げた。按察局も生き残ったが、先帝はついに浮かんでこなかった。後鳥羽の兄である若宮(守貞親王)は存命であるという。前中納言教盛、門脇と号す〉は入水。前参議〈経盛〉は戦場を出て陸に上がって出家し、立ち返って海底に沈んだ。新三位中将〈資盛〉前少将有盛朝臣らも同じく入水した。前内府〈宗盛〉右衛門督〈清宗〉らは伊勢義盛に捕らえられる。その後、武士たちが御座船に入り、ある者が賢所を開こうとしたところ、たちまち両眼がくらみ心神喪失した。平大納言〈時忠〉が制止したので彼らは退いた。

壇ノ浦古戦場跡
壇ノ浦古戦場の知盛・義経像

3月27日-希義の遺髪が鎌倉に届く

土佐国介良荘(高知市介良)の僧が鎌倉で頼朝と対面した。頼朝の弟希義が土佐で蓮池権守家綱に討ち取られた時、人々は平家を恐れて死体は放置されたが、この僧が墓所を選んで没後を弔い、遺髪を持参したのである。

3月29日-法皇が豊後の武士に平家追討を命じる

頼朝の申請により院庁から豊後の武士にあてて、平家とそれに加担している四国周辺の武士たちの追討を命じる下文が出された。

4月4日-京都に平家滅亡の知らせが届く

京都に義経の使者が来て平家を滅ぼしたことを報告し、平家の負傷者や戦死者、捕虜の名を記した書き上げを法皇に奉った。

4月11日-壇ノ浦の戦勝報告

鎌倉で勝長寿院の立柱の儀式が行われている時、平氏滅亡を知らせる義経の記録が届けられた。先月24日、赤間関の海上に840余艘の軍船を仕立て、平氏も500余艘で合戦を行い、午の刻に勝敗が決したことについてであった。
一、先帝(安徳天皇)は海底に沈まれました。
一、入水した人々。二位尼上門脇中納言〈教盛〉新中納言〈知盛〉平宰相経盛、先に出家か〉・新三位中将〈資盛〉小松少将有盛左馬頭行盛
一、若宮(守貞)ならびに建礼門院(徳子)はお救いしました。
一、生け捕りの人々。前内大臣(宗盛)平大納言〈時忠〉右衛門督〈清宗〉前内蔵頭信基(信範の子、時子・時忠の従弟)〈傷を負う〉・左中将時実、同じく負傷〉・兵部少輔(藤原)尹明(安徳の蔵人。妻の母は清盛の姉妹とも)・内府(宗盛)の子息で6歳の童〈字は副将丸〉。このほか、濃前司(源)則清(宗盛の家人)・民部大夫(田口)成良元大夫判官(源)季貞(清盛の側近)・摂津判官(平)盛澄(摂津守盛信の子、清盛の側近)・飛騨左衛門尉(藤原)経景(飛騨守景家の子)・後藤内左衛門尉信康(重衡の乳母子後藤盛長の縁者か)・右馬允(橘)家村(系譜不詳)。女房、帥典侍先帝の御乳母〉(忠盛の孫、時忠の後妻)・大納言典侍重衡卿の妻〉(輔子、藤原邦綱の娘)・帥局二品(時子)の妹〉・按察局先帝を抱いて入水するも生存〉。僧、僧都全真(母は時子・時忠の妹)・律師忠快(教盛の子)・法眼能円(時子・時信の異父兄弟。娘は土御門天皇の母)・法眼行明〈熊野別当〉
藤原邦通がこの記録を読み終えると、頼朝は記録を手に取って巻き戻し、鶴岡の方に向かって座ったが、言葉を発することもできなかった。

4月12日-壇ノ浦の戦後処理

平氏滅亡後の戦後処理について話し合われ、範頼は九州にとどまり、義経は捕虜を連れて上洛することが決まった。

4月13日-威光寺の寺領押領

武蔵国威光寺(神奈川県川崎市多摩区にあった)の院主が、日々祈祷を行い平家が滅亡したのに寺領が押領されていると鎌倉に訴えた。

4月15日-頼朝の折檻状

頼朝が自身の許可なく任官した御家人の帰国を停止し、一人ひとりの名を挙げて罵倒した。そのうち、渋谷重助に対しては、父(重国)は在国しているのに、平家に従い各地をうろついた後、木曾義仲に従い京にとどまったと非難し「鍛冶屋に言いつけて首筋に厚く鉄を巻いておくように」と脅した。

4月21日-梶原景時が義経の不義を告発

梶原景時の飛脚が鎌倉に到着し、義経の不義を訴えた。そこには、景時の従者の夢に石清水八幡宮の使いが現れ「平家は未の日に死すべし」と書かれていたこと、屋島を攻め落とした時、味方は少数だったが敵には数万の軍勢の幻が見えたこと、壇ノ浦の戦いの時に現れた大亀に札をつけて放したところ、平氏滅亡の時になって源氏の船の前に現れたこと、2羽の白いハトが船の上を旋回した時、平氏の主な人々が入水したことなどが書かれていた。そのうえで、御家人たちは頼朝を君と仰いで平家を滅ぼしたのに、義経はその功を自分一人のものと考え、諫めの言葉も聞き入れないので早く帰りたい、と訴えた。

4月26日-平家の捕虜が帰洛

本日申の刻、前内府(宗盛)をはじめ生け捕りの人々が都に入った。前内府平大納言(時忠)〈それぞれ八葉車に乗り前後の簾をあげて左右の窓を開いていたという〉、右衛門督(清宗)〈父の車の後ろに乗る。それぞれ浄衣を着て立烏帽子〉で、土肥実平が車の前に、伊勢義盛が後ろにいた。その他の武士は車を囲み、また美濃前司(源則清)をはじめとする捕虜を引き連れていた。信基時実らは負傷していたため脇道を通った。すべて義経の六条室町の屋敷に入ったという。

4月28日-建礼門院の吉田渡御

建礼門院(徳子)が吉田(京都市左京区吉田)の律師実憲(東大寺の僧)の住坊に入った。船津(京都市伏見区柿木浜町)にいた若宮(守貞)〈今上の兄〉は坊門信清の屋敷に迎えられた。同じ日、源氏累代の御家人である近江の前出羽守重遠が鎌倉に参上し、平治の乱後、平家の権勢に従わなかったが、在京の東国武士に兵糧米を督促され困っていること、このような仕打ちは平氏の時さえなかったことを告げた。

4月29日-妹尾郷の寄進

義経に従ってはならないという命令が御家人に下される。同じ日、平家没官領として頼朝が拝領していた備中国妹尾郷(岡山市妹尾)を崇徳院の法華堂に寄進された。

5月1日-建礼門院の出家

今日、建礼門院(徳子)が出家したという。

5月4日-頼朝が義経を勘当

頼朝が義経を勘当し、西国にいる御家人たちに「今後、義経に従ってはならない。ただし、入京した平氏一門の生け捕りの人々の処置はもっとも重大な事案である。罪名が決まるまで御家人たちは心を一つにして彼らを警固するように」と命じた。

5月5日-頼朝が宝剣の捜索を命じる

頼朝が九州にいる範頼に宝剣の捜索を命じた。そのついでに、渋谷重国に対して「加摩兵衛尉(原田種益)を討ったことは見事である」とほめた。

5月8日-幕府が九州の措置を協議

頼朝が中原(大江)広元・三善康信らと九州のことなどについて審議した。宇佐大宮司公房(公通の子)は、日頃から平家のために祈祷していたが、元のように宇佐宮の実務を行うこと、平家没官領のほか貞能および盛国法師らが領家の給与として支配している所領があるという噂があるのでその所在を伝えさせること、範頼に無礼をした美気大蔵大夫(原田種直の子種泰か)を関東に召し出すことなどが決められた。

5月9日-原田種直の所領を分配

石橋山の戦い後も平家に属していた渋谷重助の任官が取り消された。また、原田(種直)の所領は戦功をあげた者たちで分配することが範頼に命じられた。

5月10日-上総介忠清の捕縛

志摩国麻生浦(三重県鳥羽市浦村町)で加藤太光員の郎従が、平氏の家人上総介忠清法師を捕らえて京都に送った。

5月11日-頼朝が従二位に昇叙

前内府(宗盛)を捕らえた賞により頼朝が従二位に叙され、その除書が鎌倉に届いた。

5月12日-宗盛が酒匂宿に到着

義経の使者が鎌倉に到着し、前内府父子(宗盛・清宗)を連れて参上し、明日鎌倉に入ることを告げた。頼朝は前内府の身柄を迎え取るため北条時政を酒匂宿(神奈川県小田原市酒匂)に派遣した。

5月16日-愁涙にくれる宗盛

忠清法師が六条河原で首をさらされた。今日、前内府が鎌倉に入った。内府は輿に乗り、金吾(清宗)は馬に乗っていた。家人の(源)則清盛国入道(源)季貞〈以上は前検非違使尉〉、盛澄(藤原)経景(後藤)信康(橘)家村らも同様に騎馬で従った。若宮大路を経て横大路に入り、しばらく輿が止められ、牧宗親が御所に到着を告げた。西の対が父子(宗盛・清宗)の宿所とされ、夜になり中原(大江)広元が食事を勧めたが、内府は手をつけず愁いの涙にむせぶのみであったという。これより前、頼朝が同父子と家人たちの処遇を奏聞したところ「鎌倉に下向させ死罪に処せ」との勅許があったが、時忠卿については死罪一等を減じることとされた。これは内侍所(神鏡)が無事に京都に戻ったのが彼卿(時忠)の功績によるためという。

5月19日-畿内で群盗が蜂起

鎌倉において、京都や畿内で蜂起している群盗についての処置が審議された。平氏の家人の中で戦場を逃れた者が元の所領に隠れ住んで支配し、都や地方に横行して盗賊行為をしていること、遠国の御家人が関東の権威を背景に不法を行っていることなどに厳しく処断することが決まった。

5月23日-対馬守親光の逃亡

源範頼が対馬守(藤原)親光を迎えるため船を対馬に派遣したところ、親光は平氏の攻撃から逃れるためにすでに高麗へ渡っていた。そこで今日、対馬から高麗に向けて船が送られ「平氏はことごとく滅亡したので、不審を抱かず帰朝するように」と記した書を送った。

5月24日-腰越状

義経は朝敵を平らげ、前内府(宗盛)を連れて参上したことにより恩賞は疑いないと考えていた。しかし、頼朝の勘気をこうむり鎌倉入りを止められため、愁いのあまり腰越駅(神奈川県鎌倉市腰越)で一通の詫び状(腰越状)を書いて中原(大江)広元に送ったが、頼朝の心は動かなかった。

6月2日-公家平家の配流先が決定

配流の官符が下され、上卿の源通親(妻の一人は教盛の娘)が参陣し藤原光雅がこれを命じられ、その目録がこの日、鎌倉に到着した。
流人、前大納言時忠〈能登〉・前内蔵頭信基〈備後〉・前左中将時実〈周防〉・前兵部権少輔(藤原)尹明〈出雲〉・法印大僧都良弘〈阿波〉・権少僧都全真〈安芸〉・権律師忠快〈伊豆〉・法眼能円〈備中〉・法眼行明〈常陸〉

6月5日-源宗季が御家人となる

囚人である前廷尉(源)季貞の子源太宗季が父の生死を知るために鎌倉に到着した。宗季は弓馬の芸を受け継ぎ、矢を作る名人であったことから御家人に加えられた。

6月7日-宗盛が頼朝と対面

前内府(宗盛)は近日帰洛の予定となった。頼朝は本三位中将(重衡)が下向した時と同じように対面すべきか中原(大江)広元に聞いたところ、「頼朝はすでに二位で、彼(宗盛)は過失を犯して朝敵となり今や無位の囚人です」と諫められたため簾中から宗盛の姿を見た。しばらくして、前内府〈浄衣をつけ立烏帽子〉が西侍の障子の辺りに姿を見せた。平賀義信・北条時政・足利義兼・中原(大江)広元らがその近くに座った。頼朝が比企能員を通じて「田舎にお呼びすることになったのは恐れ多いが、武芸に携わる者の名誉にしたいと思った」と語りかけた。能員が内府の前に蹲踞して仔細を伝えると、内府は敬意を表するように座を動き、しきりにへつらう様子で「ただ命を助けていただければ、出家して仏堂に専心したい」といった。是(宗盛)、将軍4代の孫として武勇の家に生まれ、相国(清盛)の第二の息(実際は三男)として官位も報酬も思いのままであった。だから、武威を恐れてはばかることも官位を恐れることもない。どうして能員に礼を尽くすことがあろうか。それで死罪が許されるものでもないと、この様子を見た者は非難したという。

6月9日-宗盛・重衡が帰洛

酒匂に逗留していた義経が前内府(宗盛)を連れて帰洛した。頼朝は橘公長(もと知盛の家人)・宇佐美実政らを派遣して囚人(宗盛父子)につけた。義経は日ごろ、関東に来れば平氏征伐について功績が賞せられると考えていたが、拝謁さえかなわず帰洛することとなり、その恨みはより深くなっていたという。また、重衡卿は去年から狩野介宗茂のところにあったが、今、源頼兼(頼政の次男)に引き渡され、同じく進発した。東大寺の衆徒の申請に従い南都へ送られるという。

6月13日-頼朝が義経の平家没官領を没収

義経に分け与えられた平家没官領24か所がすべて没収された。義経は今回の勲功を自分一人のものと考え、帰洛に際して「関東に恨みのある者たちは義経に従え」と放言して頼朝の怒りを買ったためである。

6月14日-平家と対馬

対馬守親光が高麗から対馬に帰り着いた。親光は一昨年、対馬から上洛しようとした時、平家が九州に零落してきたため、上洛への道を閉ざされ船出できなくなった。そこで対馬にいたところ、中納言知盛卿および少弐(原田)種直らが奉行となって屋島へ参上するように催促された。九州と対馬・壱岐、中国では皆が平家に従ったが親光は応じなかったため、3度も追討使が派遣された。高二郎大夫経直種直の家の子〉が2回、拒捍使宗房(賀摩)種益の郎等〉が1回である。彼らは何度も対馬に下向して国務をとり親光と合戦したため、去る3月4日に高麗に渡ったという。

6月18日-頼盛の出家

池亜生〈頼盛〉の使者が鎌倉に到着し、先月29日、東大寺の辺りで日頃の望みに従い出家〈法名は重蓮〉を遂げたことを伝えてきた。かねてから頼朝に相談していたという。

6月20日-香椎社前宮司公友の乱行

京都で大地震があった。筑前国香椎社の前任の大宮司である公友(越中前司盛俊の婿とも)が領家の命に背いて乱行をなし、造替・遷宮を滞らせ、強引に社務をとっていたため処罰するよう社官らが幕府に訴えていた。今日、公友を追放し、遷宮を遂行することをが命じられた。

6月21日-宗盛・清宗の処刑

義経は近江国篠原宿(滋賀県野洲市篠原)に至り、橘公長に命じて前内府(宗盛)を誅殺。野路口(同草津市野路町)に至り堀景光に命じて前右金吾〈清宗〉の首をさらした。この間、大原の本性上人(湛豪)が処刑場を訪れて父子(宗盛と清宗)に仏道を説いたので、両客(宗盛と清宗)はともに上人の教化に帰して、たちまち怨念を翻し、欣求浄土の志が生じたという。また、重衡卿は今日、京都に召し入れられた。前内府〈宗盛公〉公家(安徳天皇)の外戚となり、官職は槐門内相府(内大臣)にのぼったが、朝敵の罪名を許される拠り所とはならなかった。しかし、大臣が断罪された先例は多く、蘇我入鹿、藤原仲麻呂、菅原道真、高倉院の御代の藤原師長の配流がある。

6月22日-重衡が東大寺へ送致

重衡卿が衆徒の申請によって東大寺に送られた。

6月23日-宗盛・清宗の梟首と重衡の処刑

前内大臣(宗盛)右衛門督清宗の首が義経の家人により六条河原に運ばれ、検非違使が受け取り獄門の前の樹にかけられた。この日、前三位中将重衡が南都で斬首された。伽藍の火災の首謀者であったため衆徒が強く申し出たからという。

伏見区日野の平重衡の墓
平重衡の墓(京都市伏見区日野)

6月25日-佐々木成綱の所領安堵

佐々木成綱はかつて平家に従ったが、一ノ谷の戦いで子息俊綱が越前三位通盛を討ったので恩賞を希望した。頼朝は許さなかったが、侍従藤原藤原公佐(藤原成親の子で姉妹は平維盛の正室。阿野全成の娘婿でもあった)を通じて何度も訴えたので所領を安堵された。

7月2日-宗盛の梟首の報が鎌倉に到着

橘公長・浅羽宗信が鎌倉に戻り、先月21日に前内府父子(宗盛と清宗)を獄門にかけたこと、重衡を南都に引き渡したことなどを報告した。

7月7日-貞能の赦免

前筑後守貞能は平家の一族で、故入道大相国(清盛)の専一の腹心であった。西海の合戦に敗れる前に逃亡し行方をくらましていたが、少し前に突然、宇都宮朝綱のもとにやってきた。平氏の運命が尽きることを知って出家し、「今は山林に隠棲し往生の願いを果たすつもりである。そのためには関東の許しをもらわないと願いはかなわないのでこの身を預かってほしい」と望んでいるという。平氏近親の家人であることから頼朝も決めかねたが、朝綱は「私が平家に属して在京していた時、(頼朝の)挙兵を聞いて参向しようとしたところ、前内府(宗盛)は許しませんでしたが、貞能は朝綱、(畠山)重能、(小山田)有重らを許すよう申してくれたので、味方に参ることができました。私の志だけでなく上(頼朝)にとっても功績のある者ではないでしょうか。後日、彼入道(貞能)が反逆を企てたら朝綱の子孫を断絶してください」といったので、今日、宥免されて朝綱に預けられた。

7月12日-原田・山鹿の旧領の処置

平家追討後、範頼の管轄下の九州で乱暴狼藉が起きているという訴えがあったため、範頼を帰洛させよとの後白河法皇の命令があった。頼朝は「菊池原田ら平氏に同意の輩が所領を略奪ししていることについて事実確認をさせている」と奏上し、平家没官領や(原田)種直(板井)種遠(種直の従弟)・(山鹿)秀遠らの所領については地頭を置くまで沙汰人を派遣するので帰京せよと範頼に命じた。

7月26日-忠快が伊豆に到着

前律師忠快は流人として一昨日、伊豆国小川郷(静岡県三島市)に到着した。平家の縁座によるものという。

7月29日-平家の縁座の処置

高階泰経の消息が鎌倉に到着。今月上旬、仏厳上人の夢に赤衣の人が現れ「罪なき人々が平家の縁座で島流しの刑罰を被った。そのため(7月9日に京都で)大地震が起こった」と述べたので、滅んだ人々の罪を消すために不断の御読経が始められたこと、流罪中の僧は寛大に処理すべきことが記されていた。

8月4日-源行家の謀反

源行家はたびたび平氏の軍陣に派遣されたが、功をあげることがなかった。行家は西国に隠れて謀反を企んだため、頼朝の追討命令が下った。

8月13日-九州の国衙領・荘園の処置

京都の中原久経から鎌倉に院庁下文の案文が届けれた。九州の国衙領・荘園を国司や領家に返すことを大宰府や在庁官人に命じるもので、大納言三条実房、藤原成範(清盛の娘の元婚約者、小督の父)をはじめ、参議讃岐権守平朝臣(時信の子親宗)らの署名があった。

8月24日-下河辺行平の帰還

九州から鎌倉に帰ってきた下河辺行平が九州遠征の状況を頼朝に報告。兵糧が切れたため甲冑を売却し、鎧と船を交換して豊後に渡り美気三郎(敦種)を討ち取ったことを報告した。

9月2日-義経が時忠の婿となる

梶原景季らが上洛した。勝長寿院供養の布施や仏具を整えること、平家縁座の輩で配流先に赴いていない者について、赦免を受けている場合を除き、早々に配所へ下すよう奏上すること、さらに義経に行家追討を命じるためである。去る5月20日に前大納言時忠卿以下に配流の官符が下されたが、いまだに在京しているので頼朝が怒っていたところ、義経が亜生(時忠)の婿となった縁によりこれを京都に留め、行家を支援しているとの噂があったためこのような措置がとられたという。

9月23日-時忠の配流

前大納言時忠卿が配流先の能登に下向したという。

10月13日-義経が頼朝追討の官符を求める

義経が院御所に参上し、行家が謀反を企てたこと、自身も平氏の凶悪を退けた功を無視して所領を没収され、かつ自身の誅滅を企てていると訴え、頼朝追討の勅許を求めた。

10月20日-清経と鵜丸

範頼が鎌倉に到着し最近の情勢を報告した。先月27日に西海から京都に入り、九州で仙洞の重宝の御剣である鵜丸を探し出して進上したが、これは平氏の党類が寿永二年に都落ちした時、清経朝臣が法住寺殿から吠丸・鵜丸の御剣二腰を持ち出したうちの随一であるという。

10月24日-時家・光盛が勝長寿院の供養に出席

勝長寿院の供養が行われ、百数十人の武士が随兵として頼朝に従った。一条能保ほか前少将時家、藤原公佐、(平)光盛(頼盛の子)ら公家衆も出席し、御堂の前に着座して布施を渡す渡す役を務めた。

11月3日-平時実の都落ち

頼朝の上洛を知った行家と義経が、前中将時実(時忠の子)、佐藤忠信、伊勢義盛、弁慶ら200余騎を引き連れて西海へ赴いた(6日に大物浦で遭難)。

11月20日-時実の捕縛

讃岐中将時実朝臣は流人の身でありながら密かに京にいたが、今度、義経とともに西海に赴いた。しかし、一味が離散し帰京したところ、村上経伊が生け捕った。

12月1日-頼朝が時実の捕縛を命令

平氏の一族で死罪や配流から漏れている人々が多数京都にいた。また、前中将時実はこの夏に配流の宣下を受けたが配所に向かわず、義経に同意して西海に赴いたという情報が鎌倉に届いたので、探し出して捕らえ在京御家人に預けるよう、頼朝が北条時政に命じた。

12月6日-頼朝の天下草創

頼朝が義経に同意した公家・北面の処罰を命じる折紙を吉田経房に送った。そこには謀反人の処置、議奏公卿の設置などのほか、参議親宗(時忠の異母弟)、高階泰経らの解官も記されていた。また、九条兼実に献じた書状には平家が後白河に背いて狼藉を企てたこと、平家追討の結果を待たず近国11か国の武士の狼藉を止めるため中原久経・近藤国平を派遣したこと、(原田)種直(菊池)隆直(板井)種遠(山鹿)秀遠らの没官領に沙汰人を置く予定であること、諸国荘園に地頭職を設置したことは幕府の私的な処置ではない、今こそ天下の草創の時であると記されていた。

12月17日-平孫狩り

小松内府(重盛)の息丹後侍従忠房の身柄を後藤基清が預かった。また、北条時政が屋島前内府(宗盛)の息童2人と越前三位通盛卿の息1人を探し出した。大覚寺の北の菖蒲沢(京都市右京区梅ヶ畑菖蒲谷付近)で権亮三位中将維盛卿の嫡男〈字は六代〉を生け捕った。輿に乗せて野地に向かうところ、神護寺の文覚上人が(六代と)師弟関係にあるといい「鎌倉の沙汰を待つ間、断罪を猶予してほしい」と頼んだ。藤原経宗の猶子である前土佐守宗実小松内府の息〉についても経宗が頼朝に赦免を申請した。このため両人は除かれ屋島内府の息等が梟首された。

12月21日-地頭の補任

諸国の荘園の下地(土地)はすべて関東が領掌することとなった。以前に地頭を称していたのは、多くが平家の家人で朝恩によるものではない。あるいは、平家領内で地頭の号を授けたり、国司・領家が私的な恩賞として補任したものである。平家が零落した時、家人の知行地も没収されたため、領主は後悔していたが、全国に地頭が補任されたのであきらめたという。

12月24日-六代の赦免

文覚の弟子が鎌倉に参上し「故維盛卿の嫡男六代公は門弟であるのに梟首されようとしています。彼の党類(平家)はすべて追討されました。このような幼い者は、たとえ許しおいたとして何の問題がありましょうか。とりわけ祖父内府(重盛)はあたなにも真心を尽くされた。一つに彼(重盛)の功に報いるため、一つは文覚の面目を立てるため、お預け願えないでしょうか」と告げた。頼朝は「彼(六代)は平将軍の正統である。少年といえども、やがて成人を迎えるだろう。その心中は測りがたい。しかし、上人からの訴えも無視できない、進退きわまった」と述べた。しかし、使者の僧が再三懇望したので、しばらく上人に預ける旨の書状を北条時政に送ったという。

12月26日-時実が鎌倉に到着

前中将時実朝臣が今日、牧宗親に伴われて鎌倉にやってきた。藤原経宗の書状も到来し、そこには「故小松内府(重盛)の末子前土佐守宗実は幼い頃からの猶子です。断罪されるだろうという風聞があるので、その身柄を申し請いたい」と書かれていたので、頼朝は了承した。


参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡2 平氏滅亡』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(一)』(岩波文庫)/山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄』(講談社学術文庫)