本巻について
本巻のハイライトは何といっても一ノ谷の戦いである。かねて指摘されているとおり、鵯越の地理情報に誤りはあるものの、討ち取られた公達の名前が詳細に記録されており、後白河院の奸計にあったことを示唆する宗盛の手紙も紹介されている。捕らえられた重衡と頼朝の対面、千手前との酒宴も貴重な記述で、逆境の中でもきらりと光る重衡の教養や度量の大きさ、優美さを余すところなく伝えている。また、頼朝を頼った頼盛の一族と対照的に、平宗清が平家に忠義を尽くす決断を下すのも本巻である。その潔くも貴い姿は「平家武者の鑑」として、永遠に語り継がれるべきものであろう。
[凡例] 平家の一門・血縁者・家人は赤で示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。
寿永3年(1184)
4月16日に改元して元暦元年となった
1月3日-頼朝が伊勢外宮に所領を寄進
頼朝が所領を豊受太神宮(伊勢神宮外宮)に寄進した。寄進する大河戸御厨(埼玉県三郷市・八潮市一帯か)は平家が不当に支配していたものという。
1月23日-鹿島社の僧の夢
常陸国鹿島社の社僧が、去る19日、ここの神が木曾義仲と平家を罰するために京都に赴く夢を見たという知らせが鎌倉に届き、頼朝を喜ばせた。
1月29日-範頼・義経が西国に進発
木曾義仲を討った源範頼・義経が平氏討伐のため西国に向かった。
2月4日-清盛の三回忌
この頃、平家は西海・山陰道の軍兵数万騎を従えて摂津・播磨の境にある一ノ谷に城郭を構えていた。この日、相国禅門(清盛)の3回忌(実際は3年目の忌日法要)を迎え仏事を行っていたという。
2月5日-三草合戦
源氏軍2万余騎が摂津に到着した。平家はこれを聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中守師盛・平内兵衛尉清家(北陸遠征にも参加した平家家人)・恵美次郎盛方(美作国英多郡江見の菅谷党の武士)をはじめとする7000余騎が摂津三草山(兵庫県加東市)の西に到着した。山の東に布陣した義経は田代信綱・土肥実平と評定を行い、夜半頃に三品羽林(資盛)を襲撃したため、平家は大いに慌て散り散りとなった。
2月7日-一ノ谷の戦い
義経は精鋭70余騎を連れて、一ノ谷の後ろの山〈鵯越と号す〉に到着した。熊谷直実と平山季重が卯の刻に一ノ谷の前の道を通り、海側から平氏の館際を襲った。飛騨三郎左衛門尉景綱(飛騨守景家の子)・越中次郎兵衛盛次(盛継・盛嗣とも。越中前司盛俊の子)・上総五郎兵衛尉忠光(上総介忠清の子)・悪七兵衛景清(忠清の子)らが23騎を率いて木戸口を開けて合戦に及んだ。その後、範頼軍も来襲し乱戦となった。義経は三浦義連以下の勇士を率いて鵯越から攻めかかったので、平氏は慌てて敗走した。この時、本三位中将重衡は明石浦(兵庫県明石市)において梶原景時・庄家長らに捕らえられた。越前三位通盛は湊川(神戸市中央区)の近くで佐々木俊綱に誅殺された。このほか、薩摩守忠度朝臣・若狭守経俊・武蔵守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊(平盛国の子)の7人は範頼・義経の軍勢に討ち取られた。但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は安田義定によって首を取られたという。
2月9日-義経の入京
義経が平氏一族の首を大路に渡すことを奏聞するために入京した。
2月11日-大路渡しが決定
範頼・義経が平氏の人々の首を大路で渡すことについて奏聞した。近衛基通(妻は清盛の娘寛子)・藤原経宗(重盛の子宗実を猶子とした)・九条兼実・中山忠親(妻は時忠の娘)らは、「平氏の一族は朝廷に仕えて久しいので穏便の処置をすべきではないか。範頼と義経は私怨を晴らそうとしているのかもしれない。大路を渡すことについては決めかねるので相談せよ」と法皇から伝えられた。意見は分かれたが、範頼・義経の強い申し出により、ついに大路を渡すこととなった。
2月13日-平氏一門の首渡
平氏の首が義経の六条室町邸(京都市左京区)に集められた。それは通盛卿・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊らの首である。首はすべて八条河原に運ばれて長槍刀(なぎなた)につけられ、赤簡(あかふだ)〈「平某である」と、その名が簡に記されていた〉がつけられ、獄門に向かう樹にかけられた。
2月14日-重衡の尋問
本三位中将重衡卿が勅使藤原定長の尋問を受けるため、土肥実平と同車して故藤原家成の八条堀川堂に向かった。広廂で尋問が行われ、重衡の陳述は箇条書きで報告された。
2月15日-一ノ谷の戦勝報告
範頼・義経の合戦記録が鎌倉に到着する。そこには、去る7日、一ノ谷において合戦があり平家の多くが命を失ったことが述べられ、「前内府(宗盛)以下は海で四国の方へ赴きました、本三位中将(重衡)は生け捕りにしました。通盛卿・忠度朝臣・経俊〈以上3人は範頼が討ち取る〉、経正・師盛・教経〈以上3人は義定が討ち取る〉、敦盛・知章・業盛・盛俊〈以上4人は義経が討ち取る〉、このほか梟首するもの1000余騎」と記されていた。
2月16日-重衡の尋問
藤原定長が一昨日と同じように重衡卿を尋問した。
2月20日-宗盛の手紙
去る15日、本三位中将(重衡)が前左衛門尉(平)重国(重衡の家人。『源平盛衰記』では烏帽子子とされる)を四国に派遣し、勅定の旨を前内府(宗盛)に伝えた。先帝(安徳天皇)と三種の神器を都に帰す内容であった。これに対する宗盛からの返事がこの日、京都に到着した。その書状はおおむね次のようなものだった。
--主上(安徳)と国母(建礼門院徳子)が京都に戻られることについても承りました。去年7月、西海に行幸された時も帰京を求める院宣が来ましたが、主上と国母は備中国下津井(岡山県倉敷市下津井)からすでに船出していて、洛中も不穏な情勢のため船出しました。
(中略)やがて洛中が平和になったので、去年10月に九州を出て帰洛しようとしたところ、閏10月1日、院宣があるといって木曾義仲が備中国水島(倉敷市)で1000艘を率いて万乗(安徳)の還御を妨害しました。その後、讃岐国屋島(香川県高松市)に滞在し、1月26日にふたたび船出して摂津に遷りました。去る4日には亡父入道相国(清盛)の仏事を行おうとしたところ下船できず、輪田(神戸市兵庫区南部の和田岬一帯)の海辺にいたところ、6日、院の使者が来て「和平の相談の使者が下向するので、使者が勅答(天皇の返事)をもって帰京するまで狼藉してはならないという命令が関東武士らに伝えられている」と伝えてきました。この仰せを守って、官軍(平家軍)の兵士たちはもともと合戦をする意思がなかったうえに、襲撃を予期せず院の使者を待っていたところ、同じく7日、関東武士が御座船の浮かぶ海の汀に襲来しました。官軍は院宣を重んじて退きましたが、関東武士は勝ちに乗じて多くの官軍を誅殺しました。これはどいういうことでしょうか。院の命令が伝わっていなかったのか、武士たちが院宣に背いたのか、官軍を油断させるための奇謀だったのでしょうか。迷いや嘆きで心を晴らすことができません。
(中略)和平について奏上しようとしたところ、院が(源平)両方に公平な処置をとるということでしたが、いまだに院宣がなく、確かな判断をお待ちしているところです。私は仙洞(後白河)にお仕えして以後、官職も出世も、我后(後白河)の御恩にどのように報いたらよいか考えてきました。
(中略)朝廷の政治や主上・女院のことについても、法皇の助けがなければ、誰を君と仰ぐことができましょうか。しかし、法皇が比叡山に登られてしまったので、慌てて西海に行幸したのです。その後、院宣であると称して源氏の武士たちが何度も合戦を企てたので防戦したまでで、平家も源氏も互いに遺恨はありません。平治の乱は院宣により追討が行われ、藤原信頼の縁座により源義朝が滅んだものであり、私的な宿意によるものではありません。公家(安徳)と仙洞(後白河)が和親されたら、平氏も源氏も意趣は抱かないでしょう。
(中略)還御については、毎回武士が派遣されて道中を妨害するので進むことができず、すでに2年に及びました。今となっては早く合戦を停止し、災いを除くという真実の心をお守りいただきたいと思います。和平も還御も、内容の明確な院宣をいただければ承知いたします。
2月25日-頼朝が院へ義経への協力を依頼
頼朝が朝廷の政務についての考えを院に送った。ここには「平家追討の事」として、「畿内近国で源氏や平氏と称して弓矢を携帯している者たちは、義経の命令に従って軍勢に加わるよう命じてほしい」と記されていた。
2月27日-佐々木成綱が頼朝に恩賞を要求
近江の佐々木成綱が鎌倉に参上し、子息俊綱が一ノ谷の戦いにおいて越前三位〈通盛〉を討ち取ったので恩賞が欲しいと申し出た。しかし、これまで平氏に属し、都落ちして初めて参上したのは真の志ではないと述べたという。
3月1日-頼朝の平家追討の下文
頼朝が九州の武士に平家追討の下文を出した。院宣により頼朝が命じるものであること、平家と和議を結んで謀反を起こした義仲を追討したこと、平家が四国にとどまって畿内近国の港に出没し財物を奪い取っていることを述べ、御家人になれば所領を安堵するので平家の賊徒を追討せよと命じた。また、四国の武士はほとんどが平家に与力していたが、土佐は主だった武士が関東に通じていたので、北条時政が平家追討の命令を伝えた。
3月2日-重衡が義経邸に入る
三位中将重衡卿が土肥実平のもとから義経の邸に移った。実平が西海に出陣するためである。
3月10日-重衡が関東下向
三位中将重衡卿が梶原景時に連れられて関東に向かった。
3月13日-原高春の所領安堵
尾張の武士原高春が鎌倉に呼ばれた。高春は上総広常の外甥で薩摩守忠度の外甥でもあり、平氏の恩顧を受けていたが、広常との縁により平相国(清盛)に背き、治承4年(1180)に関東にはせ参じたが、去年の広常誅殺の後、田舎に隠れてしまった。頼朝は広常が罪なくして死なせたことを後悔し、広常の親戚を多く許したが、中でも高春は功績があったので所領を元どおり支配させた。
3月22日-大井実春が伊勢の平氏家人討伐に向かう
大井実春が伊勢に向かおうとした。平家の家人の主だったものが、伊勢に潜んでいるという噂が聞こえたため、征伐を命じられたためである。
3月27日-重衡が伊豆国府に到着
三品羽林(重衡)が伊豆国府(静岡県三島市)に到着した。折しもは北条にいた頼朝は、梶原景時に連れてくるように命じ、明朝に面会することを伝えた。
3月28日-重衡が頼朝と対面
頼朝が廊で本三位中将(重衡)〈藍摺(藍で布に模様を摺り染したもの)の直垂、引立烏帽子(先端を引き立てて形を整えた烏帽子)〉を謁見し、「お会いできたのは名誉なことである。このうえは槐門(宗盛)と謁見することも疑いがない」と述べた。羽林(重衡)は「源平が天下を警護してきたが、この頃は当家だけが朝廷をお守りし、昇殿を許されたものは80余人となり、その繁栄は20年に及んだ。今、運命が縮まり囚人としてここに来たのだから、あれこれ言うこともない。弓馬に携わる者が敵のために捕虜になることは決して恥辱ではない。早く斬罪に処するように」と、少しの憚りもなく答えたので、これを聞いて感動しない者はいなかった。(重衡は)狩野介宗茂に召し預けられたという。
4月4日-頼朝が時家と花見
鎌倉の御所に桜が咲いたので、頼朝は一条能保と前少将(平)時家とともに終日花を愛で、管弦・詠歌も催された。
4月6日-頼朝が頼盛の所領を安堵
前大納言(頼盛)と妻(八条院大納言。法印寛雅の娘)の所領が平家没官領の注文に載せられ、朝廷から頼朝に下された。しかし、故池禅尼(藤原宗子)の恩徳に報いるため、頼朝は亜生(頼盛)の勅勘を許すよう朝廷に奏上し、家領の34か所は元どおり彼家(池大納言家)の管領とすることを昨日決めた。「池大納言家の沙汰」として、走井荘(大阪府枚方市走谷)・長田荘(三重県伊賀市長田)など17か所の荘園を彼家(池大納言家)の管領とすること、布施荘(兵庫県たつの揖西町)・龍門荘(滋賀県大津市大石竜門町)など14か所を八条院(頼盛が仕えた暲子内親王)の所領、麻生大和田領(大阪府門真市)・諏方社を妻の所領として、彼家(池大納言家)が知行するように文書で伝えた。
4月8日-重衡が鎌倉に到着
本三位中将(重衡)が伊豆から鎌倉に到着した。頼朝は御所内の建物一軒に(重衡を)招き入れ、狩野介宗茂一族・郎従たちに毎夜10人ずつ当番で護衛させた。
4月14日-源光行が父光行の助命を嘆願
源光行が京都から鎌倉に下り、平家に属していた父豊前前司光季(季遠の子)の赦免を嘆願した(22日に赦免)。
4月20日-重衡と千手前の出会い
本三位中将(重衡)が頼朝の許しにより沐浴した。夕方、徒然を慰めようといって、頼朝は藤原邦通と工藤祐経、官女一人〈千手前と呼ばれる〉を羽林(重衡)のもとへ遣わした。酒・果物も添えて送らせたため、羽林は大いに喜び遊興で時を過ごした。祐経は鼓を打って今様を歌い、千手前が琵琶を弾いた。羽林は横笛で合わせて五常楽(ごじょうらく)を吹き「下官(私)にとって、これは後生楽と呼ぶべきだろう」といい、その後、皇麞急(おうじょうきゅう)を吹いて「往生急である」といった。まったくもって興を催さない芸能は一つもなかった。夜中になって女房(千手前)が帰ろうとすると、羽林はしばらくこれを留めて盃を与え、さらに「燭暗くして数行虞氏の涙、夜深くして四面楚歌の声」と朗詠を吟じた。その後、邦通らは頼朝の御前に参上し「羽林は言葉も芸能もまったくもって優美です」と伝え、五常楽を「後生楽」、皇麞急を「往生急」と称したのにはみな由緒があり、楽名の中の廻忽(かいこつ)はもともと「廻骨」と書き、中国の葬礼で演奏したものであると説明。「自分が囚人として誅されるのが間近に迫っていることを心得ているのでしょう。四面楚歌の句を詠じたのは、項羽が呉の国を通った時のことを思い出したのではないでしょうか」と推測した。頼朝は感激し「世間の噂を憚って、自分がその座に臨まなかったのが恨めしい」と述べたという。頼朝は宿衣(とのいぎぬ)一領を千手前にもたせてもう一度遣わし、祐経を通じて彼女を側に召しおくよう伝えた。祐経はしきりに羽林を憐んだ。以前、小松内府(重盛)に仕えていた時、常に羽林と顔を合わせていたので、旧好を忘れなかったからであろう。
4月28日-頼朝が平氏追討のため軍を派遣
鎌倉に平氏が西海にいるとの噂が流れ、軍兵が派遣された。
5月3日-頼朝が伊勢に所領を寄進
頼朝が伊勢神宮の内宮・外宮に所領を寄進した。伊豆配流の時に霊夢を見てから伊勢神宮を信仰していたため、平家の党類が伊勢にいるという噂があっても、頼朝は「凶賊がいる場所でも伊勢神宮への報告なく乱入してはならない」と命じていた。
5月19日-頼盛が小笠懸を見る
頼朝は鎌倉に滞在していた池亜相(頼盛)、一条能保を伴い、由比ヶ浜から船で杜戸(神奈川県三浦郡葉山町堀内)に向かい小笠懸を催した。客たち(頼盛ら)も大いに興に行ったという。
5月21日-頼朝が頼盛父子の還任を要請
頼朝が京都の高階泰経に書状を送り、池大納言(頼盛)とその息男(光盛)をもとの官職に戻すよう要請した。
6月1日-平宗清の忠義
頼朝が池前亜生(頼盛)を招いて餞別の宴を開いた。前少将時家も参加して酒宴が行われ、引出物として金作りの剣一腰を時家朝臣が、砂金一裏(つつみ)を中原(大江)広元が渡し、さらに馬10頭が引かれてきた。(頼盛の)従者にまで引き出物が与えられ、平家の一族である弥平左衛門尉宗清〈左衛門尉(平)季宗の子〉が呼ばれた。亜生(頼盛)は鎌倉に到着した時、最初に頼朝から(宗清のことを)尋ねられ、「病気で遅れています」と答えていた。そのため、すでに鎌倉に着いていると考えていたが、「まだ到着していない」と亜生が言ったため、頼朝の本意に違うこととなったという。この宗清は池禅尼の侍で、平治の乱の時、頼朝に志を寄せた。頼朝はこれに報いたいといったので、亜生は京都を出る時、この旨を宗清に伝えたところ、宗清は「戦場に向かうのなら進んで先陣を務めましょう。しかし、関東の招きの理由を考えると、昔の奉公に報いようということであり、平家が零落してしまった今、鎌倉に行くことは恥以外の何ものでもありません」と述べて、屋島前内府(宗盛)のもとに参ったという。
6月4日-石川義資が鎌倉に到着
石川義資(義基の弟)が関東に到着した。去る養和元年(1181)に平家に生け捕りにされた河内源氏随一の者という。
6月5日-頼盛の帰洛
池前大納言(頼盛)が京都に戻った。頼朝は平家没官領を辞退して亜生(頼盛)に譲ったうえ、鎌倉逗留中は連日酒宴を催し、食事に美味を整え、金銀を限りなく、美しい織物を何枚も献上した。
6月20日-頼盛父子の還任
去る5日に小除目(臨時の除目)が行われ、その除書が鎌倉に届いた。頼朝が推挙したとおり、権大納言平頼盛、侍従同光盛、河内守同保業(頼盛の養子)のほか、源範頼が三河守、平賀義信が武蔵守に任じられた。
6月23日-頼朝が片切為安に旧領を返還
かつて源義朝に仕えた片切為安に、平治の乱で平氏に没収された片切郷(長野県上伊那郡中川村片切)が返還された。
7月3日-頼朝が義経に平氏追討を命じる
頼朝が前内府(宗盛)をはじめとする平氏を追討するため、義経を西海に派遣することを後白河法皇に申し入れた。
7月5日-三日平氏の乱が勃発
大内惟義の飛脚が鎌倉に到着し、去る7日、伊賀において平家の一族に襲撃され、家人が大勢殺されたことが伝えられたため、鎌倉中が騒然となった。
7月18日-頼朝が反乱鎮圧を決定
伊勢の合戦について議され、逃げ隠れている平家の郎従らを滅ぼすよう大内惟義・加藤景員・山内首藤経俊に命令が下された。
8月2日-三日平氏の乱
大内惟義の飛脚が鎌倉に到着した。去る19日酉の刻、平家の与党と合戦を行い逆徒は敗北、討ち果たした者は90余人に及んだ。そのうち張本は、富田進士(平)家助(平家資。前中務丞で薩摩平六を称した)・前兵衛尉(平)家能(家資の兄か)・(平)家清入道(頼盛の家人宗清の子)・平田太郎(平)家継入道(忠盛・清盛に仕えた家貞の子、貞能の兄)の4人であった。前出羽守信兼(山木兼隆の父)の子息ら、ならびに(藤原)忠清法師(前上総介)らは山中に逃亡し、源氏方の佐々木秀義が平家のために討ち取られたという。
8月3日-頼朝が義経に信兼誅殺を命じる
頼朝が京都にいる義経に使者を送り、「伊賀の兵乱はすべて出羽守(平)信兼と子息たちが引き起こしたものだが、巧みに逃れて行方知れずとなった。京中に潜伏しているだろうから、早く探し出して速やかに誅殺せよ」と命じた。
8月8日-範頼の平家追討軍が進発
源範頼が平家追討使として、1000余騎とともに西海に向かった。
8月17日-義経の任官
去る6日、義経が検非違使左衛門少尉に任官したとの知らせが鎌倉に届く。頼朝の気持ちに違うものだったため、義経を平家追討使とすることが猶予された。
8月26日-平信兼の解官
義経の飛脚が鎌倉に到着し、去る10日、(平)信兼の子左衛門尉兼衡・次郎信衡・三郎兼時らを招き誅殺したこと、同11日に信兼が解官されたことを告げる。
9月9日-平信兼の領地が義経の支配下に入る
出羽前司(平)信兼入道をはじめとする平氏の家人たちの京都における所有地については、義経の支配とするよう頼朝が書状を送った。「京都における平家没官領は法皇が決めるべきことだが、信兼の所領については義経の沙汰によるものとする」
9月19日-橘公業が讃岐に侵入
去る2月に摂津国一ノ谷の要害が破られると、平氏の一族は西海に向かい国々を奪い取った。これを攻撃するため、頼朝は軍兵を派遣した。讃岐では橘公業が先陣として入ったので、同国の武士は公業の命に従うよう命令された。平家が同国の屋島に内裏を構えた時、源氏の味方に参じた御家人の名を記した文書を送ったためであるという。
11月23日-園城寺が平家没官領を要求
園城寺の法師が平家領没領を園城寺に寄進してほしいという衆徒の蝶状を鎌倉に持参した。そこには、故入道太政大臣〈清盛〉は朝廷の秩序に背き悪罪をほしいままにし、数万騎の軍勢で数百軒の房舎を焼き払った。木曾義仲が京都に入ると六波羅の凶徒は退散したが、義仲の所業は平家を超えるものであったなどと述べられていた。そのうえで、平家没官領の2、3か所を寄進してほしい、平氏は園城寺を破滅させたので自ら一族を滅ぼすことになった。源氏は園城寺を敬い繁栄を招くべきであると説いた。
12月1日-頼朝が平家没官領を園城寺に寄進
頼朝が平家没官領である若狭国玉置領(福井県三方上中郡若狭町玉置)にある2か村を園城寺に寄進する。下文には平家の逆徒のために寺院を破壊された僧侶たちを案ずる思いがつづられていた。
12月7日-藤戸の戦い
平氏左馬頭行盛朝臣が500余騎の軍兵を率いて備前国児島(岡山県倉敷市児島半島西部一帯)に城郭を構えた。佐々木盛綱が攻略のために向かったが、波濤が激しく渡るのが難しいため浜辺にとどまっていたところ、行盛朝臣がしきりに挑発した。しかし、船がなかったため、盛綱は馬に乗ったまま6騎の郎従とともに藤戸(倉敷市藤戸町)の海路〈3丁余り〉を押し渡り、行盛を追い落とした。
12月25日-頼朝が鹿島社の地頭の非法を停止
頼朝は鹿島社の神主に金・銀の禄物を与え、同社に寄進した土地は地頭の非法を停止し、神主が管理することを命じた。日頃、願書を捧げて祈っていたところ、義仲が誅され、平内府(宗盛)も一ノ谷の城郭を出て敗北し四国に赴いたため、いよいよ信仰を深めたためという。
12月26日-頼朝が佐々木盛綱を称賛
佐々木盛綱が備前国児島に渡り左馬頭平行盛朝臣を追伐したことについて、頼朝が書状を出し「昔から川を渡る話はあるが、馬で海を渡った例は聞いたことがない。盛綱の振る舞いは世にもまれな壮挙である」と称賛した。
参考文献
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡2 平氏滅亡』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(一)』(岩波文庫)/山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄』(講談社学術文庫)