本巻について

本巻は清盛が亡くなり、平家の家運が急速に傾いていく時期の記録である。前半のハイライトは清盛の死で、「断固東国を追討せよ」という雄々しい遺言が記録されている点は貴重だ。平時忠の子ながら、長らく頼朝に近侍する平時家が登場するのも本巻である。平家が快勝した墨俣川の戦い、宇治川の「馬筏」で名をはせた足利又太郎忠綱が勇戦する野木宮合戦、越後の城長茂と木曽義仲が争った横田河原の戦いなどの著名な合戦だけではなく、伊勢・志摩における平家家人と熊野の悪僧の戦い、土佐の流人源希義の追討など、各地の御家人たちの活躍も見逃せない。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



治承5年(1181)

7月14日に改元し養和元年となった

1月5日-伊豆江四郎の敗走

関東の武士が京に上るとの噂が立ち、平家は家人を各地の海浦に配置した。伊豆江四郎(大江姓の平家家人)は志摩国に派遣されたが、熊野の衆徒が菜切島(三重県志摩市菜切)を襲撃したため郎等は敗走、江四郎は宇治岡(三重県伊勢市)に逃れたところ、波多野忠綱・義定に子息2人を討ち取られた。

1月6日-平井紀六の捕縛

平井紀六(久重)が工藤景光に生け捕られた。去年8月の早川の合戦で北条宗時を殺し、頼朝が鎌倉に入った後、逃亡したため捜索が行われ、相模国蓑毛(神奈川県秦野市蓑毛)付近で捕らえられた。和田義盛に預けられたが、勝手に梟首してはいけないという頼朝の命令があったため糾問したところ、宗時を殺したことを認めたという。

1月18日-南都焼亡の風聞

去年12月28日に南都の東大寺・興福寺以下、堂塔坊舎がことごとく平家のために焼失し、勅封・寺封の倉(正倉院)のみ災いを免れたとの風聞が鎌倉に届く。

1月21日ー船江の戦い

熊野の悪僧たちが伊勢・志摩に乱入し、平家の家人が逃亡したり討たれたりした。悪僧たちが四瀬河(三重県伊勢市の宮川河口右岸)まで攻め寄せたところで、平氏の一族の関出羽守(平)信兼が甥の伊藤次以下の軍兵を率いて船江(伊勢市船江)の辺りで防戦。悪僧の張本である戒光に信兼の矢が当たったので衆徒は熊野に退いた。南海道は当時、平相国禅門(清盛)が奪い取った地だったため、鎌倉方の悪僧たちが企てたものという。清盛は驕りのあまり朝廷を軽んじ、神威をおろそかにした。最近は伊勢神宮領に兵糧米を賦課し、民家を追捕した。天照大神の鎮座以来、初めてのこととされ、2~3年で禅門(清盛)とその子孫は敗北するだろうと、都鄙の貴賤が夢に見たという。

2月9日-石川義基の梟首

河内で討ち取られた源氏の石川義基の首が、平氏の家人によって京都で渡され、左京の獄門にかけられた。

2月12日-知盛が近江から帰還

左兵衛督知盛卿左少将清経朝臣左馬頭行盛らが近江から帰還した。頼朝追討のため出陣したが、左武衛(知盛)の病気によるものという。美濃で討ち取られた武士の首も入洛したが、知盛卿が伴ったものであろう。

2月27日-通盛らの軍が尾張に到着

安田義定の使者が鎌倉に参上し、平氏の大将軍中宮亮通盛朝臣左少将維盛朝臣薩摩守忠度朝臣らが数千騎を率いて下向し、尾張に到着したことを報告した。

2月29日-九州で原田種直が反平家勢力と交戦

肥後の菊池隆直、豊後の緒方惟義が平家に叛き、関を固めて海陸の交通を止めた。平家に味方する原田大夫種直(大宰権少弐)が九州の武士2000騎を動員して合戦し、隆直方の多くが負傷した。

閏2月4日-清盛逝去

入道平相国(清盛)が九条河原口(九条大路東端)の盛国の家で亡くなった(実際の盛国邸は八条河原にあったとされる)。先月25日から病気だったという。遺言では、3日の後に葬儀を行い、遺骨は播磨国山田(神戸市垂水区の舞子付近)の法花堂に納め、7日ごとに作法どおり仏事を行うが、毎日してはならない、京都で追善仏事を行ってはならない、子孫はひたすら東国を帰伏させる計略を立てて実行せよとのことである。

平清盛終焉推定地
平清盛終焉推定地(盛国邸跡)

閏2月10日-藤原景高の出陣

前右大将〈宗盛卿〉の家人大夫判官(藤原)景高(飛騨守景家の子)以下1000余騎が、頼朝追討のため東国へ出発した。

閏2月15日-重衡の出陣

蔵人頭重衡朝臣が院庁の御下文を携え、1000余騎の軍兵を率いて東国に出陣した。

閏2月19日-清盛の遺骨が播磨へ送られる

平相国禅門(清盛)が亡くなり、遺骨を贈るため播磨へ下ったという三善康信の書状が鎌倉に届く。

閏2月23日-野木宮合戦※

頼朝の叔父志田義広が足利又太郎忠綱(藤姓足利俊綱の子。宇治川合戦の馬筏が有名)を誘って3万余騎で鎌倉を攻めようとして小山朝政と合戦になる(野木宮合戦)。忠綱は以仁王が平相国(清盛)一族の追討を命じる令旨が下した時、自身の名がなかったので憤り、源三位頼政の軍を破った。反逆の心は収まらず、この機会に対立する同族の小山氏を滅ぼすため加わったという。

※『吾妻鏡』の別の記事から、実際の野木宮合戦は寿永2年(1183)2月23日であった可能性が高いとされる。

閏2月25日-足利忠綱が西海へ逃亡

足利又太郎忠綱は野木宮合戦で敗北した後、郎従の桐生六郎とともに上野国山上郷竜奥(群馬県桐生市山上)に数日間隠れていたが、桐生の意見に従い、山陰道から西海へ赴いたという。忠綱は末代無双の勇士であり、三つの点で人を越えていた。一つは力が100人に相当し、二つはその声が10里(約4キロメートル)に響き渡り、三つには歯が1寸(約3センチ)もあるという。

3月10日-墨俣川の戦い

頼朝の叔父行家と卿公義円(義経の同母兄)らが尾張・三河の武士を率いて墨俣川(三重県大垣市墨俣付近の長良川)の辺りに陣を張った。平氏の大将軍頭亮重衡朝臣左少将維盛朝臣越前守通盛朝臣薩摩守忠度朝臣三河守知度朝臣讃岐守左衛門尉(高橋)盛綱〈高橋と号す〉(盛国または盛俊の子)・左兵衛尉盛久(盛国の子)らが同川の西岸に陣を張った。行家が夜襲をかけようとしたところ、馬を洗うために川に出た重衡朝臣の舎人金石丸がこれを知らせたため、重衡の随兵が先に源氏を襲い源氏軍を破った。盛久は義円を討ち取り、忠度は源行頼(行家の子)を生け捕りにし、盛久は泉(山田)重光(山田重忠の父)と弟次郎を討ち取った。

3月19日-行家の敗報が鎌倉に届く

尾張の住人大屋安資(和田義盛の娘婿)が鎌倉に下り、墨俣川の戦いにおける行家の敗北を告げ、「平家は勢いに乗っているので行家は熱田社に籠り、重衡朝臣以下は近くにやって来るでしょう」と報告。頼朝は、尾張の在庁官人の多くが平氏に従う中、鎌倉に忠節を尽くす安資を誉めた。

4月19日-平井紀六の梟首

北条宗時を殺した平井紀六(久重)の首が腰越浜でさらされた。

5月16日-村山頼直の所領安堵

村山頼直が城四郎(長茂)らと戦った功績を讃えられ、頼朝に所領を安堵される。

7月20日-左中太常澄の捕縛

鎌倉の鶴岡若宮の上棟式が行われた(この時、義経が馬を引く役を拒み頼朝にたしなめられた)。儀式終了後、7尺もある大男が現れ頼朝の背後に寄ったので、下河辺行平が捕らえて尋問したところ、安房で頼朝を襲撃した長佐六郎(長狭常伴)の郎等左中太常澄であった。主人の常伴が殺され、従類が没落したため恨みを晴らすために様子をうかがっていたという(翌日、片瀬川で斬首)。

8月13日-頼朝・義仲追討の宣旨

藤原秀衡は頼朝を、平資永(城資職)は木曾義仲を追討せよという宣旨が下された。平氏の計らいによるものである。

8月15日-経正が北陸道へ出陣

平氏但馬守経正朝臣が木曾義仲追討のため北陸道へ出陣したという。

8月16日-通盛が北陸へ、忠清が関東へ出陣

中宮亮通盛朝臣が義仲追討のため北陸道へ向かった。伊勢守(藤原)清綱上総介(藤原)忠清舘太郎貞保(伊勢の平家家人)が頼朝追討のため東国へ出陣した。

9月3日-城資職が急死

越後守資永(資職)〈城四郎と号す〉が勅命により越後の軍士を徴発し、木曾義仲を攻めようとしたところ急死した。養和元年(1181)8月13日、従五位下越後守に任じられていた。

9月4日-水津の戦い

木曾義仲が平家を追討するため北陸道へ向かった。先陣の根井行親が越前国水津(福井県敦賀市杉津)に至り、通盛朝臣の随兵と合戦を始めたという。

9月7日-足利俊綱の追討

従五位下藤原(足利)俊綱〈字は足利太郎〉は仁安年中(1166-69)、ある女性との事件により下野国足利荘(栃木県足利市)の領主職を解任された。そこで本家の小松内府(重盛)がこの土地を新田義重に与えたため、俊綱は上洛して訴え取り戻した。以後、俊綱はその恩に報いるため平家に属し、嫡子の又太郎忠綱は志田義広に味方した。頼朝はこれをとがめ、和田義茂(義盛の弟)らに俊綱追討を命じた。

9月13日-足利俊綱が殺される

(足利)俊綱の腹心である桐生六郎が主人を斬ったとの知らせが、和田義茂から鎌倉に届く。

足利氏の福厳寺
足利忠綱が母の菩提と父俊綱の供養のために創建した足利市の福厳寺

9月16日-足利俊綱の首実検

桐生六郎が持参した(足利)俊綱の首実検が、旧知の下河辺政義により腰越(鎌倉市腰越)で行われた。

9月18日-桐生六郎の斬首

桐生六郎が今回の賞により御家人にしてほしいと申し出た。頼朝は「譜代の主人を誅するのは不当である」といって六郎を斬首し、(足利)俊綱の首の傍らにさらした。俊綱の妻子の本宅・資財は安堵し、俊綱の子息郎従であっても鎌倉に味方した者は罰しないことが和田義茂に命じられた。

9月27日-田口成良が河野通信を破る

民部大夫(田口)成良(経島の築造や南都焼き討ちにも参加した四国の有力家人)が平家の使として伊予に乱入し、平家に敵対する河野通信らを破った。

10月3日-維盛が出征

頭中将維盛朝臣が東国を襲うため都を発ったという。

11月5日-維盛、近江に陣を張る

維盛朝臣の軍を防ぐため、足利義兼・源義経・土肥実平らが出陣しようとしたところ、佐々木秀義が「羽林(維盛)は近江に陣を張っており、いつ下向するかわからない。尾張にいる十郎蔵人(源行家)が食い止めるだろう」といったため出陣は延期された。

11月11日-埴生盛兼の自害

源三位頼政の一族である加賀堅者が鎌倉に参り、頼政の近親の埴生盛兼が関東に向かおうとしたところ、9月21日、前右大将〈宗盛卿〉の命により追捕を受けて自害したことを告げる。

11月21日-通盛・行盛の帰洛

中宮亮通盛朝臣左馬頭行盛が北国から帰洛した。但馬守経正朝臣は若狭にとどまったという。




養和2年(1182)

5月27日に改元し寿永元年となった

1月23日-平時家が頼朝に初参

伯耆守(平)時家が頼朝に初参した。時家時忠卿の子であったが、継母の企みで上総に配流され、上総広常の婿となった。広常は去年より頼朝の機嫌を損ねていたため、それをあがなうため時家を推挙した。頼朝は京都からの客を大事にしたので特に目をかけたという。

2月8日-頼朝が伊勢神宮に願書を奉納

頼朝が伊勢神宮に御願書を奉納した。御願書には、平治の乱の折、前平大相国(清盛)が頼朝を討とうとしたが天運があって免れたこと、清盛が頼朝の謀反を上皇に報告したのは偽りであること、平大相国が急死したのは神慮であったことが記されていた。

2月14日-伊東祐親の自害

三浦義澄に預けられていた伊東次郎祐親法師が、北条政子の懐妊のため恩赦された。義澄がこのことを伝えると伊東(祐親)は参上するといったが、間もなく郎従がやって来て「禅門(祐親)は自身の行いを恥じて自害した」と報告した。義澄は駆けつけたところ、死体はすでに片づけられていたという。

2月15日-伊東祐清が頼朝への臣従を拒否

三浦義澄が祐親法師の自害を頼朝に伝えた。頼朝は安元元年(1175)9月、祐親に殺されそうになった時、助けてくれた祐親の子伊東九郎(祐清)を召して功労を賞しようといった。しかし、九郎は「父はすでに亡く、栄誉は無意味に等しいので、早く暇をいただきたい」と述べたので誅殺された。世間ではこれ(祐親の孝心)を美談としない者はなかったという。

4月11日-平貞能が九州の反乱勢力を圧倒

(平)貞能が平家の使者として鎮西にいたが、京から派遣された官使と自身の家人を国郡に派遣し、兵糧米を厳しく取り立てた。肥後の菊池隆直はこれを逃れるため帰伏することを申し出たという。

5月16日-時家と謎の老人

鎌倉の御所に老翁が伺候したので、前少将(平)時家が尋ねたが名乗ろうとしない。頼朝が対面すると伊勢神宮外宮の禰宜渡会為康で、安田義定の神宮領押領を訴えに来たのであった。

9月15日-北陸道の平家軍が帰洛

木曾義仲追討のために北陸道へ向かった平氏の軍兵らがことごとく京都に戻った。寒気が厳しいためというが、実際は義仲の武略を恐れたのだろう。

9月25日-源希義の追討

源希義は平治の乱により土佐国介良荘(高知市介良)に流されていた。平家は同母兄の頼朝に合力する疑うがあるとして、希義の追討を命じる。故小松内府(重盛)の家人である土佐の住人蓮池権守家綱平田太郎俊遠は、吾河郡年越山(高知県南国市か)で逃亡する希義に追いつき討ち取った。家綱俊遠は希義に味方した夜須行宗も討とうとしたが、行宗は海上に逃亡。家綱らは行宗の船に使者を派遣して相談をもちかけおびき出そうとしたが、行宗は意図を察して使者を斬り紀伊へ逃亡した。

9月28日-城長茂が源家を呪詛

越後の城四郎永用(長茂)が小河荘赤谷(新潟県新発田市赤谷)に城郭を構え、妙見大菩薩を崇拝して源家を呪詛しているとの噂があった。

10月9日-横田河原の戦い※

越後の城四郎永用(長茂)が越後守の兄資元(資職)の後を継いで源氏家を攻撃しようとしたため、木曾義仲が北陸道の軍士を率いて信濃国千曲川で合戦を行い(横田河原の戦い)、夜になり永用(長茂)は敗走した。

※実際の合戦は寿永元年(1181)6月に行われたことが『玉葉』等の史料で確認されている。

11月20日-蓮池家綱・平田俊遠の追討

頼朝は希義を殺した土佐の(蓮池)家綱(平田)俊遠を討つため、源有綱(頼政の孫)を土佐に派遣した。


参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(一)』(岩波文庫)/高橋昌明著『平家の群像 物語から史実へ』(岩波新書)