1. トップ
  2. 平家資料館
  3. 史料の中の平家
  4. 吾妻鏡巻第二十四~二十九

本巻いついて

大きな出来事としては源実朝の暗殺、承久の乱があげられる。特に実朝暗殺に際しては平家出身の僧侶の関与が疑われ、多くの供僧が尋問を受けたが、多くは無罪が認定されている。ことを荒立てたくないという北条義時の配慮も感じられる。しかし、承久の乱後は平家関係者の記事は急減し、法会にもほとんど名前が見られなくなり、鎌倉宗教界においても世代交代が進んでいる様子がうかがわれる。そうした中、寛喜3年(1331)5月に平家の人々が多数参加して行われた十日間問答講は、一門の最後の輝きだったといえよう。もはや源平合戦は遠い過去のものになっていたのである。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



建保7年(1219)

4月12日に改元して承久元年となった

1月27日-実朝の右大臣拝賀

源実朝の右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われ、多くの御家人・公家とともに八条三位光盛(頼盛の子)が参加した。儀式の後、実朝は公暁に暗殺され、公暁も幕府の討手により討ち取られた。公卿は頼家の子で、公胤僧正の弟子となり、定暁僧都の受法の弟子であった。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

1月29日-僧侶への尋問

公暁に伺候していた悪僧らが糾弾された。宿老の供僧である弁法橋定豪、安楽房法橋重慶(平家の出身)、頓覚坊良喜(平家一門の人)、花光坊尊念(平家一門)、南禅坊良智(重衡の子とも)らは幕府への祈祷を怠っていないので咎められなかった。

2月1日-良祐の罪科を審議※

鶴岡供僧の浄意坊竪者良祐に罪科があるとの讒言があったため審議が行われたが、謀反にかかわっていなかったことが分かり本坊を安堵せよと北条義時が命じた。

※「鶴岡八幡宮寺供僧次第」「鶴岡脇堂供僧次第」によると良祐は、公暁の謀反に加担したとして顕信・良弁とともに改替されている。




承久2年(1220)

4月3日-内裏再建の上卿に源通具

京都からの使者が鎌倉に到着し、内裏再建の木作始が行われ、源通具(源通親と平通盛の娘の子)らが儀式を行ったことを告げた。

12月20日-内裏の上棟

鎌倉に使者が到着し、新造された内裏の上棟が行われ源通具らが参ったことを告げた。




承久3年(1221)

5月21日-承久の乱が勃発

去る15日に北条義時追討の宣旨が発せられ承久の乱が勃発。京都の一条頼氏が鎌倉に到着し、西園寺公経が幽閉されたこと、藤原範茂(母は平教盛の娘教子)が順徳上皇(母は平教子の娘重子)を迎えたことなどを告げた。

5月25日-重慶が祈祷を行う

世の中の平穏を願う祈祷が行われ、講師を安楽房重慶、請僧は鶴岡八幡宮寺・勝長寿院などの供僧100人が務めた。

6月8日-藤原範茂の出陣

官軍の使者が京に戻り、去る6日、尾張・美濃で官軍が幕府軍に破れたことを後鳥羽上皇に告げた。人々は顔色を変え、藤原範茂ら側近公卿が宇治や瀬田に派遣された。天皇と上皇が西坂本(京都市左京区)に行幸し、職事を源具実(通具と能円の娘の子)らが務めた。

6月14日-宇治川の戦い

官軍が北条泰時率いる幕府軍に敗れ藤原範茂らが逃げ去った。

6月24日-範茂の捕縛

藤原範茂ら公卿の首謀者が六波羅に連行された。

7月18日-範茂の処刑

北条朝時に預けられていた藤原範茂が足柄山の麓で早川に入水して亡くなった。五体がそろっていなければ来世の障りになるとして自ら望んだという。

7月20日-重子の出家

修明門院(平教子の娘重子、順徳の母)が出家した。

8月2日-源光行の赦免

京方に加わった御家人源光行が赦免された。光行は元暦元年4月、父光季が平家に味方して頼朝に処刑されそうになったのを救ったので、今日、孝行な息子に助けられたのである。

10月12日-藤原秀康の捜索

京方の藤原秀康らの捜索が南都で行われ、衆徒と幕府軍の合戦が起こった。北条泰時は南都に大軍を派遣すると、衆徒は驚き「平家が伽藍を焼いたのと変わらない」といって阻止した。




承久4年(1222)

4月13日に貞応元年となった

なし




貞応2年(1223)

なし




貞応3年(1224)

11月20日に元仁元年となった

なし




元仁2年(1225)

4月20日に嘉禄元年となった

1月14日-鶴岡で最勝八講

鶴岡八幡宮で最勝八講が始められ、以後、毎月この日に儀式を執り行うことが定められた。昨日、町野康俊が奉行して僧の名を書きつけ、安楽房法橋重慶頓覚坊良喜肥前阿闍梨良智(重衡の子とも)、座心房円信(越中次郎兵衛盛継の子とも)らが記された。




嘉禄2年(1226)

6月14日-北条政子の一周忌

北条政子の一周忌の仏事が行われ、北条時房が大慈寺に三重の宝塔を建立し今日、供養が行われた。導師は小河法印忠快、布施は三十物が30であった。




嘉禄3年(1227)

12月10日に安貞元年となった

なし




安貞2年(1228)

なし




安貞3年(1229)

3月5日に改元し寛喜元年となった

なし




寛喜2年(1230)

なし




寛喜3年(1331)

5月9日-御所で般若心経供養

天下泰平の祈祷のため将軍御所で1万巻の般若心経の供養が行われた。導師は安楽房法眼重慶(原文は行慈)であった。

5月17日-鶴岡で大般若経の転読、十日間問答講

北条泰時の病気と疫病の蔓延により、天下泰平・国土豊稔のため鶴岡八幡宮で供僧以下30人の僧が大般若経の転読を行った。また、十日間、問答講が行うよう命じられた。第一日の問者(問答講において講師の経典講説に質問する役)を安楽房法眼重慶、第二日の講師(問答講で経典を講説し問者の質問に答える役)を頓覚坊律師良喜、問者を座心房律師円信、第三日の講師を座心房律師(円信)、問者を頓覚坊律師(良喜)、第八日の講師を肥前阿闍梨(良智)、第九日の問者を肥前阿闍梨(良智)、第十日の講師を安楽房法眼(重慶)が務めた。

10月12日-邦子内親王の御所の修理

安嘉門院(邦子内親王。母は頼盛の孫)の御所と神泉苑の修理について審議が行われた。




寛喜4年(1332)

4月2日に貞永元年となった

3月3日-鶴岡で法華経供養

鶴岡八幡宮寺で将軍九条頼経が参加して法華経供養が行われた。導師は頓覚坊律師良喜で、供奉していた諸大夫らを通して布施が渡された。

※「鶴岡八幡宮寺供僧次第」によると良喜は寛喜3年10月に死去しており、ここは松殿法印良基(藤原基房の孫)の誤りか。

7月8日-太白星が東井に接近

朝方、寅の刻に太白星(金星)が東井(ふたご座)に接近した。これは安徳天皇が西海に沈まれ、宝剣が紛失された時の天変である。「天子が船を浮かべて珍宝を失う」という文言があることを、天文道の者が申したという。

7月27日-竹御所が方違

竹御所(九条頼経の正室)が方違のため中原季時の家に移った。これは源頼家(竹御所の父)を追善する寺院を造営するためで、その場所は勝長寿院の弁阿闍梨(信豪)(平家一門の供僧である盛慶の弟)の房の領という。

勝長寿院跡
勝長寿院跡

10月5日-竹御所の御堂の場所

竹御所の御堂の地について審議が行われた。以前に弁阿闍梨(信豪)の地を指定していたが、本主(信豪)(もち主)が愁いを申したので止められ、大慈寺境内に決められた。

12月5日-寿永・元暦以来の文書を集積

故大江広元は生存中、幕府の大事・小事を執り行った。寿永・元暦以来、京都から届いた重要文書や聞書、嘆願書、武家の寺社対策、文治以後の領家・地頭の所務の式目、平氏合戦の時の東国武士の勲功を記した注文などの文書を右筆たちに配っていたため散在していた。北条泰時は清原季氏らに命じて探し集め、目録を整えて長井泰秀(広元の孫)に送った。




貞永2年(1233)

4月15日に天福元年となった

6月8日-近衛基通が死去

京都の使者が鎌倉に到着し、五月晦日(29日)の丑の刻に近衛禅定殿下(基通)が普賢寺殿(京都府京田辺市にあった基通の別邸。普賢寺は治承4年に平重衡の軍勢により焼失し、基通が再建した)で亡くなったことを伝えた。

9月29日-北白河院に弔問の使者を派遣

去る18日に亡くなった九条竴子(後堀河天皇の中宮)の弔問の使者が、鎌倉から京都の北白河院(頼盛の娘の子藤原陳子、後堀河の母)に派遣された。




天福2年(1234)

11月5日に文暦元年となった

なし




文暦2年(1235)

9月19日に嘉禎元年となった

なし


参考文献

龍粛訳注『吾妻鏡(四)(五)』(岩波文庫)/五味文彦・本郷和人・西田友広編『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』(吉川弘文館)/五味文彦・本郷和人・西田友広編『現代語訳 吾妻鏡10 御成敗式目』(吉川弘文館)/塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」「鶴岡脇堂供僧次第」「八幡宮御殿司職次第」(続群書類従完成会)/『群書類従 第4輯 補任部』「鶴岡八幡宮寺社務職次第」(八木書店)