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本巻について

前巻に続き、鎌倉における平家出身僧侶の活躍が目を引く。定暁が公暁の出家の師となり、登壇受戒のためともに上洛したほか、頼盛の子静遍も鎌倉に下り、忠快とともに大規模な法会を催している。さらに、定暁が建立した北斗堂の供養で、忠快が導師を務めるなど、平家一門が鎌倉仏教界のリーダー的存在として存在感を発揮する姿は圧巻である。また、政治面で注目すべき記事は、宗盛の家人であった美濃前司則清の子が、幕府に仕官を望んだ記事だろう。伊賀大夫知忠が追捕された後、頼朝が平家の侍を積極的に登用するよう指示を出していたことが記されており、知忠の反乱が幕府の平家残党狩りの方針に転換をせまったことがうかがわれるのである。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



承元2年(1208)

5月29日-新日吉社の流鏑馬

去る9日、新日吉社の小五月会に後鳥羽上皇が御幸し、流鏑馬や競馬が行われた。流鏑馬では源翔の装束を中将(藤原)範茂朝臣(範季と平教子の子)が、熊谷直宗の装束を右大臣(藤原忠経〔兼雅と清盛の娘の子〕)が、鶴丸の装束を別当(藤原保家〔基家と頼盛の娘の子〕)が整えた。

10月21日-朱雀門の炎上

東重胤が京都から鎌倉に帰り、熊谷直実の往生の様子、朱雀門が焼亡したことを告げた。藤原朝俊が松明をもって朱雀門に登り鳩の子をとって帰ったところ、その日が火災を起こした。近年、天皇・上皇は鳩を愛好しており、(藤原)保教(平保盛〔頼盛の子〕の子で、藤原保家の猶子)らは以前から鳩を買っていたので、良い時節にめぐり合い、ことさら奔走しているという。

11月14日-柏木家次の赦免

囚人の柏木五郎家次の子貞次が、日吉社の明年の五月会の馬上の役人となった。父の罪科が許されてからこの役に従事したいと嘆願したので、神事を重んじてすぐに赦免された。

12月17日-鶴岡神宮寺の開眼供養

鶴岡神宮寺(4月25日に造営が決定、12月12日に造営)の薬師如来像の開眼が行われた。導師は法橋隆宣、請僧は鶴岡若宮の供僧25人であった。供僧の布施は一人あたり奥布10端、准布10端、馬1頭、米2果などであった。




承元3年(1209)

3月21日-院御所の蹴鞠会

去る2日、後鳥羽上皇の御所で蹴鞠会が行われ、越後少将(藤原)範茂(範季と平教子の子)や源性(元源頼家の近習)らが参加した。




承元4年(1210)

8月7日-定暁が舞童を伴う

鶴岡放生会の舞童12人が、別当(定暁。時忠の一門)に伴われて幕府に参り、鞠御壺で舞楽を催したという。

9月11日-足利又太郎忠綱の遺領

故足利又太郎忠綱の遺領である上野国に散在する名田などを調査したと安達景盛が注進し、新たな地頭が任じられた。




承元5年(1211)

3月9日に改元して建暦となった

9月15日-公暁の出家

源頼家の子善哉が定暁僧都の室で出家した。法名は公暁である。

9月22日-定暁と公暁が上洛

公暁が登壇受戒のために定暁僧都を伴って上洛した。実朝から供の侍5人が遣わされた。実朝の猶子となっていたためである。

11月2日-忠快の上洛く

小川法印忠快が上洛した。町野康俊を奉行として、御馬と駅路の雑掌などが遣わされたという。




建暦2年(1212)

3月9日-実朝が三浦三崎へ赴く

実朝が三浦三崎(神奈川県三浦市三崎)の御所に出かけ、北条政子・義時・時房、中原(大江)広元らが同道した。鶴岡別当(定暁)が童らを伴って参り、船中で舞楽の芸能などが行われたという。

9月2日-八幡神人の強訴

京都から源頼時が鎌倉に下向し、去る13日、八幡神人数十人が(藤原)隆衡卿(隆房と清盛の娘の子)の門前に立ち並んだ。八幡神人の殺害事件について関係者の処分を求めるためである。




建暦3年(1213)

12月6日に改元して建保元年となった

1月4日-実朝が定暁を訪問

垸飯が行われ和田義盛が沙汰した。その後、実朝は北条義時の邸宅に入り、次に若宮別当(定暁)の雪下(鎌倉市雪ノ下)の本坊に出かけた。

3月23日-静遍が御所に参上

浄遍僧都(頼盛の子。法然の弟子で静遍とも)と浄蓮坊(源延)が召しにより将軍御所に参り、法華・浄土両宗の教えについて談義した。

4月15日-和田朝盛の出家

和田朝盛(義盛の孫)は実朝の寵愛を受けていた。近頃、和田一族は(北条義時の徴発を受け)御所に出仕しなかったため、朝盛も蟄居した。この間、浄遍僧都と会い、出離生死の道を学んで、読経・念仏を怠ることがなかった。その後、御所に参上して実朝と和歌を詠み、伺候しなかった理由を述べてわだかまりを説いた後、朝盛は浄蓮房の草庵で出家した。

4月28日-忠快・静遍が祈祷

北条義時が将軍御所に参上し、中原(大江)広元らと談合し、祈祷のため鶴岡で大般若経を転読するよう供僧らに命じた。このほか、小河法印忠快は不動法、静遍僧都は金剛童子法を修した。

5月2日-和田合戦

和田合戦が勃発。北条義時から義盛挙兵の報を聞いた政子と実朝は、御所を離れて鶴岡の別当(定暁)坊に移った。




建保2年(1214)

12月17日-源則胤が幕府に仕官

故屋島前内府(宗盛)の家人であった美濃前司(源)則清の子の左衛門尉則胤が丹後国から鎌倉に参上し、幕府への奉公を望んだ。実朝は「少しためらいはあるが、右大将家(頼朝)の時代に平家の侍が参上した時は召し使うよう、建久年間に伊賀太夫(知忠)を誅殺された後に定めおかれたうえは許そう」といった。則胤は歌人であり、実朝の心にかなったという。

法性寺一橋付近
知忠が潜伏した法性寺一橋付近



建保3年(1215)

10月30日-鶴岡の鳥居の新造

8月の台風で倒れた鶴岡八幡宮の浜の鳥居が新造され、北条義時・時房らが監督した。晩に作事は終わったが、足場が倒れ工匠や人夫が怪我をした。これは重服(父母の喪。同年1月に北条時政が死去しており、子の義時・時房は喪中であった)の人々が加わっているからだろうと別当(定暁)や供僧が申したという。

11月24日-岩田荘を菅原有成に安堵

安楽寺領筑前国岩田荘(福岡県小郡市上岩田・下岩田)が左近大夫菅原時賢の子息有成に与えられた。有成が平家に同心したと兄弟の成賢が訴えたので岩田荘を収公しようとしたところ、彼(平家)の悪行にはくみしていないと弁明し、道理があったので安堵されたという。




建保4年(1216)

2月1日-良喜の祈祷

鶴岡の供僧頓覚坊良喜(平家一門の人)が祈祷を行った。波多野朝定が使者となり御馬が遣わされた。

4月15日-殷富門院が死去

鎌倉に飛脚が到着し、去る2日に殷富門院亮子内親王(後白河の皇女。安徳天皇の准母として皇后となる)の死去を伝えた。

5月10日-忠快が仏像を供養

御所の持仏堂に七仏薬師像が安置され、供養が行われた。導師は小河法印忠快で、同人により七仏薬師奉が行われた。

閏6月14日-中原広元が大江に改姓

今月1日、中原広元を中原姓から大江氏となる勅裁が下った。広元が先例を調べて朝廷に申請し、正二位行中納言藤原朝臣隆衡(隆房と清盛の娘の子)がこれを命じた。

閏6月24日-忠快が六字河臨法の日程に異議を唱える

小河法印忠快が六字河臨法(川に浮かべた船中で、千手観音の6字真言を唱えて行う修法)を行うことが、大江広元・二階堂行光らを奉行として審議された。陰陽師の安倍親職・泰貞らが7月1日から29日までの3日間を指定し、適宜決められるよう述べたが、法印(忠快)は上・中旬は支障があると言い、29日については難色を示した。実朝は「これは陰陽道の誤りである」といって親職・泰貞を籠居させた。

7月29日-忠快が六字河臨法を行う

小河法印忠快が相模川で六字河臨法を行った。実朝も1万騎を従えて出席し、並ぶもののないほど壮観であった。

8月19日-定暁が北斗堂を建立

鶴岡宮の傍らに別当定暁僧都が北斗堂を建立し、今日供養が行われた。小河法印忠快が導師を務め、北条政子が堂に入った。

10月29日-定暁が一切経供養を行う

実朝の御願として鶴岡北斗堂で一切経供養が行われ、三位僧都定暁が導師を務めた。大江広元が奉行となり実朝と政子、北条義時が参加した。




建保5年(1217)

5月11日-定暁が死去

申の刻に鶴岡八幡宮別当の三位僧都定暁が腫れものを患い死去した(同年、6月20日に公暁が別当に就任)。




建保6年(1218)

1月12日-平正重の追捕

後藤基清の飛脚が京都から到着し、去る3日、白河の辺りで謀反を起こした者がおり、追捕したところ郎従が多く負傷したが、ついに首謀者の首をとったことを告げた。この者は伊勢平氏庶流の掃部権助(平)正重で、驕り高ぶって軍勢を集めようとしたという。

5月5日-北条政子が従三位となる

北条政子が熊野参詣から帰ってきた。在京中、政子は従三位となった。出家者の叙位は道鏡以外ないが、女性の叙位は准后の場合に先例がある。安徳天皇の御外祖母(時子)と藤原忠実の母全子で、これらに準拠して叙されたという。

5月9日-範智の堂供養

三条局が京都から鎌倉に帰ってきた。亡父範智の粟田口の遺跡に一軒の堂舎を作るために上洛していた。その堂は先月8日に供養が行われ、これに先立ち、花山院右府(藤原忠経〈兼雅と清盛の娘の子〉)が被物(かずけもの)を十重送り、布施取(僧に布施を渡す役)の公卿は前中納言(藤原)範朝・三位(藤原)兼季(中山忠親と平時忠の娘の子)らが務めた。

6月21日-平為盛が鎌倉に到着

前日鎌倉に到着した勅使の藤原忠綱が、実朝の左大将就任拝賀のための調度品を御所に運び、その後、実朝と対面した。晩になって池前兵衛佐(平)為盛朝臣(頼盛の子)、源頼茂らも到着した。

6月27日-実朝の左大将就任の拝賀

源実朝の左大将就任の拝賀が鶴岡八幡宮で行われ、殿上人の一人として前兵衛佐為盛朝臣が参列した。

7月5日-平為盛が帰京

殿上人の前兵衛佐為盛、花山院能氏らが帰京した。

12月2日-良喜が仏像供養の堂達

北条義時が霊夢により創建した大倉の新御堂に薬師如来像が安置され、今日供養が行われた。導師は行勇、呪願(呪願文を読む人)は遍曜、堂達(法会の際に諸事を行い願文を導師に、呪願文を呪願師に捧げる役)は頓覚坊良喜〈若宮の供僧〉が務めた。


参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(三)(四)』(岩波文庫)/塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(続群書類従完成会)