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本巻について

久しぶりに平家の御家人がかかわる重大事件が勃発する。一つは、城長茂の挙兵と越後城一族の反乱である。越後の反乱では、長茂の姉妹にあたる坂額御前が巴御前さながら、一騎当千の活躍を見せて世間を驚かせる。もう一つは、三日平氏の乱(第2次)である。伊賀・伊勢において平家の御家人の子孫たちが猛威を振るった事件で、頼家の失脚による幕府の内訌を好機として挙兵したものと考えられている。宗教界では、時忠の一門定暁が平家出身者として唯一、鶴岡別当に就任した。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



正治3年(1201)

2月13日に改元して建仁元年となった

2月3日-城長茂の謀反

京都から鎌倉に小山朝政の飛脚が到着して告げた。先月23日、土御門天皇が後鳥羽上皇に朝勤行幸を行い、守成親王や七条院殖子らも出かけた。その時、越後国の住人城四郎平長茂〈城四郎資国の四男〉が軍兵を引き連れ、朝政の三条東洞院の宿所を包囲した。朝政は留守で郎従たちが防戦し、長茂は退却したが、続いて仙洞御所へ押しかけ、四方の門を閉ざし、関東(幕府)を追討せよとの宣旨を求めた。しかし、勅許がなかったため長茂は逐電し、清水坂にいるとの風聞があったため、朝政らは急いで向かったが行方は知れなかった。

2月5日-長茂の捜索

京都からの飛脚が帰洛した。(城)長茂の居場所を捜索するよう京・畿内の御家人らに命じられた。

3月4日-城長茂が誅殺

京都からの飛脚が鎌倉に到着した。2月22日、城四郎長茂とその一味の新津四郎以下が、吉野の奥で誅殺された。長茂は先だって出家を遂げていた。同25日、長茂とその一味4人の首が大路を渡されたという。

3月12日-城氏の与党が誅殺

京都からの飛脚が鎌倉に到着し、2月29日、城四郎長茂の一味である城小二郎資家入道・同三郎資正(長茂の兄助永〈資永〉の子)・本吉冠者(藤原)隆衡(秀衡の子)が、官軍によって誅殺されたことを告げた。

4月2日-城資盛の反乱

越後国からの飛脚が鎌倉に到着し、城小太郎資盛城太郎助永の息子で、長用(長茂)の甥〉が、越後国で北国の者たちを招き、反逆を企てようとしたこと、佐渡・越後両国の軍兵がこれを襲撃したが、資盛の勢いが激しかったため、打ち破ることができなかったことを告げた。

4月3日-城資盛の追討を協議

北条時政・中原(大江)広元・三善康信が会談し、(城)資盛の謀反について在国の武士に追討を命じるべきか、鎌倉にいる者を派遣すべきかを協議した。「長茂は誅殺されたが、一味はまだ逃げ去っていない。もっとも用意を整えるべき時に、鎌倉に参上している武士を一人たりとも失うことはできようか。速やかに在国の武士たちに命じられるのが良い。ただし今は越後国にはしかるべきものがいない。佐々木盛綱法師が上野国磯部郷(群馬県安中市磯部)にいるので、彼に命じるのが良い」ということで、越後国の御家人らを動員して資盛を誅殺せよとの御教書が盛綱入道に遣わされた。

4月6日-佐々木盛綱の出陣

門外で御教書を受け取った佐々木盛綱は、立ったまま御教書を読むと、門内に入ることなく傍らの馬に乗り、すぐさま鞭をあげて越後に向かった。郎従らは道中で追いつき「軽はずみです」というと、盛綱は「平将門が反逆を企てた時、追討宣下を受けた藤原忠文は食事中であったが、箸を投げ捨てて座を立ち、すぐに参内して節刀を賜った後、帰宅することなく東国に向かったという。勇士の志はこれをもって良しとするのだ」といった。

5月6日-佐々木経高の勲功

佐々木経高が讒言により源頼家の怒りを受けたことを幕府に愁訴した。その趣旨は罪のないことを弁明し、数度の勲功を記すものであった。勲功というのは、関東草創の初め、大夫尉(山木)兼隆を誅殺した時から、経高兄弟が討伐軍に加わってから世の中が静謐になった今に至るまで、何度も命を捨てて敵陣を破ったことという。

5月14日-坂額御前の活躍

佐々木盛綱の使者が鎌倉に到着し文書を提出した。「城小太郎資盛は朝廷に逆らって、城郭を越後国鳥坂(新潟県胎内市羽黒)に構えました。近国なので、忠義を思う者たちが無理に襲撃したが、すべて敗北しました。そこで盛綱が出陣を命じられ、3日のうちに鳥坂口に下り、すぐに資盛のもとに使者を遣わして御教書の趣旨を伝えたところ、『早く城の近くに来い』と答えたので、勇士たちを出陣させました。その時、越後・佐渡・信濃の御家人らが競い集まり、息子の盛季が先陣しようとしたところ、信濃の海野幸氏が右から追い抜き、進もうとしました。そこで盛季の郎従が幸氏の乗馬の轡をつかみ、この間、盛季が先陣をとげ一矢を射ました。その後、幸氏も進んで戦い負傷しました。資盛以下の賊徒が矢石を飛ばすことは雨のようでした。合戦は二刻に及び、盛季は傷を被り、郎従ら数人が死傷しました。また、資盛には坂額御前という姨母(おば)がおり、女性ながら百発百中の射芸は父兄を超えるほどでした。(坂額は)合戦中、特に軍略をめぐらし、童形のように髪を上げ、腹巻をつけて矢倉の上にいて、襲いかかる者たちを射ました。これに当たって死なない者はなく、盛綱の郎従も多くこれ(坂額)のために射殺されました。この時、信濃国の住人藤沢清親(諏訪氏の庶流)が城の背後の山に回り込み、高所から矢を放ちました。その矢は件の女(坂額)の左右の股を射ぬき、そのまま倒れたところを清親の郎等が生け捕りました。(坂額の)傷が回復したら身柄を進めます。姨母(坂額)が傷を被って後、資盛は敗北しました。出羽城介(平)繁成〈資盛の嚢祖〉が野干(狐)の手から相伝した刀は今度の合戦で紛失しました」

6月27日-坂額御前が幕府に参上

藤沢清親が囚人(城)資盛の姨母〈坂額と号する女房〉を伴い幕府に参上した。その傷はまだ治っていなかったが、注意して参ったという。頼家が見たいといったので、清親は御所に参上し、頼家は御簾の中から見た。御家人らは群参して人だかりができた。畠山重忠・和田義盛・比企能員らが侍所に控え、(坂額は)その座の中央を通って御簾の手前まで進んで座った。この間、まったくこびへつらう様子がなかった。勇力ある男と比べても恥ずかしくない様子である。顔立ちについては、陵薗の妾であってもよいほどだという。

6月29日-坂額御前の身柄

阿佐利与一義遠が女房を通じて「越州の囚女(坂額)の配流先を定められるのであれば、身柄を預かりたいと思います」と申し出た。頼家は「これ(坂額)は無双の朝敵である。望み申すというおんは思惑があるのだろう」というと、義遠は重ねて「特別な思惑はありません。ただ同心の契りを交わし、元気で力強い男子をもうけ、朝廷を守り武家を助け奉るためです」と答えた。頼家は「件の女(坂額)の容貌は良いが、心の武を思うと誰が愛らしく思うだろうか。義遠の考えは世間の人の好むところではない」とからかい、とうとう許された。阿佐利はこれ(坂額)を得て甲斐国に下ったという。

9月15日-鶴岡放生会

鶴岡放生会が行われ、源頼家が八葉の車で出御し、北条義時・中原(大江)広元・比企能員・後藤右衛門尉信康(元平家の侍で、壇ノ浦で捕らえられた後、御家人となった)・三浦義村・結城朝光らが後ろに控えた。

10月27日-定暁が蹴鞠の見証を務める

将軍御所で蹴鞠が行われ、北条時連・比企時員・肥田宗尚らが伺候し、藤原重頼(妻は二条院讃岐)や若宮三位房(定暁)らが見証(けんぞ、判定のための立会役)として控えた。




建仁3年(1203)

1月3日-御的始

将軍御所で御的始が行われ、海野幸氏・和田常盛・諏訪大夫盛隆(元平家家人で治承・寿永の内乱後御家人となる)らが射手を務めた。

2月5日-重慶が法華経供養

彼岸の初日にあたり、北条政子が鶴岡神宮寺で法華経供養を行った。導師は安楽坊(重慶)、請僧は6人で、上絹・紺絹それぞれ30疋と陸奥国産の麻布200反が施物にあてられ、三善康信がこれを差配した。

8月29日-重慶が泥塔供養を行う

源頼家の病は日を追って重くなっていったため(7月20日に発症)、鶴岡八幡宮の宝前で8万4000基の泥塔の供養が行われた。導師は安楽房重慶〈供僧の一和尚〉、請僧は25人であった。布施は帖絹100疋、白布200反、藍摺布300反、色皮20枚、米40石であった。

12月1日-重慶が法華八講を行う

鶴岡上下宮で法華八講が行われた。講師は安楽坊(重慶)である。北条政子が輿でひそかに廻廊に参った。

12月25日-進士行綱が謀反?

夜討人が伊勢国の守護所に乱入した。その張本は進士行綱であると和田義盛が申した。




建仁4年(1204)

2月20日に改元して元久元年になった

1月5日-重慶が法華経供養を行う

将軍源実朝が鶴岡八幡宮に参詣し、宮寺で法華経の供養が行われた。導師は安楽房(重慶)で、請僧は6人、布施は一人に帖絹3疋であった。

2月10日-進士行綱の拘置

伊勢国員弁郡司進士行綱が囚人として拘置された。和田義盛の訴えによるものである。

3月9日-三日平氏の乱の勃発

京都守護平賀朝雅の飛脚が鎌倉に到着し、先月、雅楽助平維基(貞基の子)の子孫らが伊賀で、中宮長司(平)度光の子息らが伊勢で蜂起したことを伝えた。両国の守護山内首藤経俊が調査したところ、すぐに合戦となり、経俊は無勢のため逃亡したので、凶徒らは2か国を制圧し、鈴鹿関(三重県亀山市関町)・八峰山(同三重郡菰野町)などの道路をふさいだ。

3月29日-平氏追討令

伊賀・伊勢両国の平氏の謀反について、その後の状況は伝わってこなかった。そこで今日、雑色を派遣し平賀朝雅の命に従い出陣するよう、ふたたび京都・畿内の御家人に命じられた。

4月21日-三日平氏の乱

平賀朝雅の飛脚が到着して伊勢の情勢を伝えた。朝雅は先月23日に出京した。この時、伊勢平氏らが鈴鹿関をふさいだため険しい道を探すことになり、合戦を行わずとも人馬が通行しにくいことから、美濃国にまわって同27日、伊勢国に入って軍議を行い、10日から12日まで合戦した。まず、進士三郎(平)基度(富田家資の子か)の朝明郡富田(三重県四日市市富田)の館を襲い、基度と舎弟松本三郎(平)盛光同四郎同九郎らを誅した。次に、安濃郡(三重県津市)において岡八郎貞重および子息・伴類を攻めた。次に、多気郡(明和町・多気町・大台町一帯)に至り、庄田三郎佐房同子息師房らに勝利し、河田刑部大夫(河田入道平貞正の一族か)を生け捕りにしたことを報告。「その狼藉はおよそ両国をなびかせたが、蜂起は三日に過ぎなかった。その残党がまだ伊賀国にいるので重ねて追討します」と告げた。

5月6日-三日平氏の乱

平賀朝雅の飛脚がふたたび到着し、「先月29日に伊勢国に至り、平氏雅楽三郎盛時とその一族たちが、城郭を当国の六ヶ山(三重県名張市・津市、奈良県宇陀郡)に構えて数日防戦したが、朝雅が武勇に励んだので敵は敗北した。張本の若菜五郎(諱は盛高。盛時の弟とも)は城郭を諸所に構え、それは伊勢国日永(四日市市日永)・若松(鈴鹿市若松)・南村(鈴鹿市南若松町)・高角(四日市市高津の街)・関の小野(亀山市関町小野)などで、ついに関の小野で命を失った」と告げた。たび重なる合戦の次第、軍士の忠節の有無などをはっきりと注進してきた。山内首藤経俊・同通時(俊通の子)らは、はじめ平氏の猛威を恐れて逐電したが、後に朝雅と合流してともに征伐に励んだという。

5月8日-進士行綱の本領安堵

伊勢国員弁郡司進士行綱は、夜討ちの疑いがあるので囚人となっていたが、それは伊勢平氏若菜五郎らの所業であると従者が白状したので、行綱は無罪となり本領は安堵された。

5月10日-平賀朝雅の伊勢守護補任

伊勢平氏追討の恩賞が決定された。平賀朝雅は伊勢国守護職に補任され、伊勢平氏の私領の水田を賜った。伊勢・伊賀両国の守護は山内首藤経俊であったが、平氏の一時の権威を恐れて逃亡したので、朝雅が補任されたのである。

6月8日-三日平氏追討の恩賞

伊勢平氏追討の恩賞が、ふたたび決定され、先の恩賞にもれていた加藤光員以下が愁いを晴らした。彼の亡卒の所領は散在の名田などである。

11月4日-三日平氏の跡

伊勢国三日平氏の跡に新たに補任した地頭が、武威に任せて伊勢神宮への御上分米を停止していると本宮が訴えた。平氏が現地を支配していた時でさえ、上分米を本宮に進上していたことははっきりしているので、先例を守っておさめるよう命じられたという。




元久2年(1205)

9月20日-伊勢・伊賀守護職について

山内首藤経俊が款状(嘆願書)を捧げた。これには、伊勢平氏が蜂起した時、無勢のため軍士を集めようとして逃れていたところ、平賀朝雅が平氏を征討した。そのため、経俊の伊賀・伊勢守護職が朝雅の恩賞にあてられたが、その時に応じて行動するのは兵の故実であると訴え、平賀朝雅の追討(同年閏7月26日)における子息持寿丸(通基)の勲功を強調し、伊勢・伊賀守護への還任を求めたが許されなかった。

12月10日-三日平氏の跡

伊勢平氏の跡に新たに補された地頭について、今日、得分の取り扱い方(率法)が定められた。




元久3年(1206)

4月27日に改元して建永元年となった

1月8日-定暁が心経会の導師

将軍御所で心経会が行われ、源実朝がいつものとおり出席した。導師は三位法橋定暁であった。

7月1日-平氏追討に参加しなかった武士

伊勢平氏が蜂起した時、平賀朝雅を大将軍として出陣したところ、参戦しなかった人々の所領などは没収されたが、それぞれ事情を弁明したので、返付されたという。

7月3日-定暁が鶴岡別当に就任

三位法橋定暁が鶴岡の別当に補任され、今日初めて神拝を行った。その後、御所に参り賀詞を申した。中原(大江)広元が取り次いだ。




建永2年(1207)

10月25日に改元して承元元年となった

1月9日-定暁が法華経供養

北条政子が牛車で鶴岡宮に参り、上宮で法華経供養が行われた。導師は別当法橋定暁で、供僧らが群参した。

9月24日-盤五家次の逮捕

藤原親能が京都から鎌倉に到着した。近江国の住人盤五(柏木)家次を連行してきた。この者は伴四郎傔仗祐兼(伴助高の子。傔仗は地方に赴任する官人の護衛官)の後胤である。元久元年に追討された富田三郎基度の聟である。武威を誇って謀反を企て、所々の道路で往来する庶民を煩わしたという。建仁3年の比叡山堂衆の蜂起(9月17日条)は、家次の策略により起きた。その時、捕縛しようとしたが、逃亡して行方が分からなかったところ、5日に白河の辺りで生け捕ったという。

10月2日-盤五家次の尋問

囚人の盤五(柏木)家次が尋問された。思うところを隠さずすべて白状に載せた。罪科に疑いがなかったので、特に処罰が加えられた。

11月17日-富田三郎基度の旧領

伊勢国小幡村(三重県四日市市大治田か)は、伊勢平氏の富田三郎基度が長年領家をないがしろにして押領していた。滅亡後、没収地として新しく地頭が補任されたので、領家の女房がしきりに訴えた。今日、地頭職を停止し、元のように領家の支配とするよう命じられたという。

12月1日-大般若経の転読

将軍家の祈祷として鶴岡宮で一日中、大般若経を転読し、供僧25人が奉仕した。


参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』(吉川弘文館)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(三)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(続群書類従完成会)