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本巻について

本巻の主要項目は、平家の御家人伊藤祐親の孫にあたる曾我兄弟の仇討、東大寺再建供養である。この前後、頼朝の征夷大将軍就任、頼朝の死(この部分は欠巻)、頼家の鎌倉殿就任、梶原景時の滅亡などの重大事件があるが、平家とは関係がないのでここには見えない。平家ファンが注目すべきは、六代が鎌倉に下向し頼朝と対面したこと、忠快・増盛(知盛の遺児)が鎌倉に下向した記事だろう。この後、忠快は実朝政権でたびたび重要な法会を主催し、鎌倉仏教の歴史に名を刻むこととなる。

[凡例] 平家の一門・血縁者・家人はで示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。



建久4年(1193)

3月13日-義慶が千僧供養に参加

鎌倉で後白河院の一周忌の千僧供養が催された。供養には宿老の僧10人を定めて頭人とし、それぞれ100人の僧が従い、2人の奉行が添えられた。一方の頭人の一人に阿闍梨義慶(忠度の弟)が選ばれ、奉行は比企朝宗と勝田成長が務めた。

3月16日-平盛継が近江に潜伏

平家の与党越中次郎兵衛尉盛継らが近江に潜伏しているという風聞があったため、後藤基清に追討が命じられた。

5月10日-時家が死去

前少将従四位下平朝臣時家(原文では信時)が鎌倉で死去した。頼朝が日頃特に情けをかけており、今改めて悲しみ悼んだという。この人は平大納言時忠卿の子息である。平氏滅亡以前、継母の讒言により安房国に追放されていたが、平氏の征伐後、おのずと頼朝に仕えていた。

5月28日-曾我兄弟の仇討

子の刻、故伊東二郎祐親法師の孫の曾我十郎祐成・同五郎時致が、富士野の神野(静岡県富士宮市内野字上野付近)の頼朝の旅館に押しかけ、工藤祐経を殺害した(5月16日から富士の巻狩が行われていた)。また、備前国の住人で吉備津宮の王藤内という者が、平家の家人妹尾太郎兼保(兼康)に味方したため囚人となっていた。しかし、祐経を介して陳謝したため、去る20日に本領を返付され帰国の途についていたが、祐経の志に報いるために途中(蒲原)から引き返し、祐経と酒を飲みながら談笑していたところ、同じく殺害された。この時、祐経と王藤内らの相手をしていた遊女が悲鳴をあげ、曾我兄弟が「父の敵を討った」と大声で呼ばわったため大騒動となった。祐成は新田忠常に討たれ、時致は頼朝めがけて走り寄った。頼朝は御剣をとって立ち向かおうとしたが大友能直に押しとどめられ、小舎人童五郎丸が時致を捕らえた。

5月29日-曾我時致の尋問

頼朝の前で曽我五郎時致の尋問が行われ、北条時政・足利義兼・北条義時・畠山重忠・宇都宮頼綱(宇都宮業綱と平長盛〈忠正の嫡子〉の娘の子)らが伺候した。頼朝が狩野介宗茂らを介して、夜討ちの宿意を尋問したところ、時致は怒って「祖父祐親法師が殺害された後、子孫が零落したが、最後の所存は決して汝らを通じて伝えるべきものではなく、直接言上したい」といった。そこで頼朝が直接聞いたところ、祐経が父河津祐泰の仇であったこと、幼少から復讐の思いを抱いていたこと、頼朝への拝謁後、自殺するつもりだったことを告げ、居並ぶ御家人たちを感嘆させたが、祐経の子祐時に引き渡され処刑、梟首された。

6月1日-時致の弟

曾我時致の弟の僧(律師)は父の死から5日後に生まれ、伊東九郎祐清(祐親の子)の妻が引き取って養った。祐清が平氏に加わり、北陸道の合戦で討ち死にした後、妻は平賀義信に嫁ぎ、子の僧も従い、当時武蔵国府(東京都府中市)にいた。祐経の妻子が僧も同罪にすべきだと訴えたため、義信のもとに尋問の使者が派遣された(子の僧は7月1日、鎌倉到着後に自害)。

8月2日-源範頼に謀反の嫌疑

源範頼が謀反の嫌疑を受けたため起請文を献上した。頼朝は「名に源の字を入れているのは一族だと言いたいためか。過分である」と怒った。取り次ぎの中原(大江)広元が範頼の使者重能にこれを伝えたところ、重能いわく、範頼は義朝の子であり、平氏征伐の使者として上洛した時、舎弟範頼をもって西海追討使に派遣すると、頼朝の文に記して奏聞され官符にも載せられているので、勝手な行為ではないと伝えた。頼朝からの返事はなく、これを聞いた範頼は狼狽したという。




建久5年(1194)

3月25日-祐親・景親の供養

伊豆国願成就院(静岡県伊豆の国市寺家)で如法経十種供養が修された。(伊東)祐親法師(大庭)景親以下の菩提を弔うためである。

願成就院大御堂
願成就院大御堂

4月21日-六代の鎌倉下向

故小松内府(重盛)の孫〈維盛卿の子〉六代禅師が京都から鎌倉に参向した。文覚の書状を所持していた。「頼朝の御恩により命を長らえてきましたので、関東に対して大それた悪事は考えておりません。ましてや出家遁世を遂げている身であればなおのことです」と中原(大江)広元を通じて頼朝に伝えたという。

5月14日-六代の処置

六代禅師について審議があり、しばらく関東にとどまらせることとなった。これは平治の乱の時、故小松内府(重盛)が源家のためにとりなしの言葉を施したことを(頼朝が)忘れなかったために、このようにしたという。

6月15日-六代と頼朝が対面

頼朝が六代禅師を招いて対面した。謀反の心がないようなら一寺の別当職に任じると述べたという。




建久6年(1195)

3月11日-東大寺供養

頼朝が東大寺の再建供養に臨んだ。この時、梶原景時と見物の衆徒が悶着を起こした。頼朝にとりなしを命じられた小山朝光は衆徒たちの前でひざまずき、「当寺は平相国(清盛)によって炎上し、むなしく礎石を残してことごとく灰燼に帰した」と述べ、源氏が再建に尽力したこと、仏事を遂行するため遠くからやってきたことを告げてなだめた。東大寺の伽藍は安徳天皇の御代、治承4年12月28日、平相国禅門の悪行によって仏像は灰と化し、堂舎は燃え尽きた。後白河法皇から再建を命じられた重源上人は、陳和卿に大仏を鋳造させ、周防国から材木を切り出し大仏殿を再建した。

4月1日-平家資の逮捕

勘解由小路京極において結城朝光・三浦義村・梶原景時が平氏の家人らを捕らえた。捕らえられたのは前中務丞(富田進士)家資(原文では宗資)父子である。この10余年、行方をくらましていたという。

6月3日-源頼家の参内

14歳の源頼家が参内し、大内惟義、和田義盛、梶原景季らが供奉した。弓場殿で御剣を賜った。宰相中将(藤原)忠経(藤原兼雅と清盛の娘の子)が渡したという。

6月14日-桂貞兼の逮捕

下河辺行平が平氏家人の桂兵衛尉貞兼を捕らえた。平氏の与党を捜索していたところ、京の西に隠れ住んでいるのが見つかったという。

6月25日-忠快・増盛の東下

頼朝が京から関東に下向し、中納言律師忠快門脇中納言教盛卿の子〉・中納言前司増盛新中納言知盛卿の息〉、前美濃守(源)則清(豊原章実の子、源光遠の猶子)の子息を伴ったという。彼らはみな平氏の縁坐にあたる者たちである。

7月19日-時忠の遺領

故平大納言時忠卿の左女牛の土地は平家没官領であったが、今回の上洛を機に、左女牛八幡宮の供僧にあてるよう頼朝が内々に取り計らった。しかし、頼朝の下向後、かの亜相(時忠)の後室(藤原顕時の娘か)の尼と帥典侍尼(安徳天皇の乳母)がこれを聞き、愁いを訴えた。その書状が昨日鎌倉に届き、頼朝は収公を取りやめ、元どおりに知行するよう伝えた。

9月28日-忠快と増盛

前律師忠快が三浦義澄の申し出により三浦に向かった。碩学だからであろうか。義澄は特に仏法に帰依している武士であった。中納言律師増盛は勝長寿院に住むという。

11月19日-大日堂の復興

相模国大庭御厨の俣野郷(神奈川県藤沢市西俣野・横浜市戸塚区東俣・上俣野)にある大日堂に、頼朝が田畠を寄進した。これは故俣野五郎景久が帰依した寺院である。権五郎景政が生きていた頃、伊勢神宮の造替の際、心御柱を切り取て造立したものであった。しかし、景久の滅亡後、堂舎・仏像は傷み、景久の後家の尼は朝夕これを嘆いた。そこで三浦義澄が興隆を取り次いできたので、景久は反逆者ではあるが、景政は源家の忠士であり、将軍家を護持するであると考え奉加に及んだという。




建久10年(1199)

4月27日に正治元年となった

8月19日-祇園女御のこと

源頼家が安達景盛の妾女に横恋慕して景盛の誅殺を命じたが、北条政子に諌止された。中原(大江)広元は「鳥羽院(白河院の誤り)が寵愛されていた祇園女御は源仲宗の妻でしたが、妻が院御所に召された後、仲宗はお気に流罪となりました」といった。

11月19日-定暁が蹴鞠会に参加

企能員の邸宅で蹴鞠が行われ、若宮の三位房定暁。時忠の一門)と僧義印らがやってきた。




正治2年(1200)

10月21日-頼家と工藤行光

源頼家が浜御所に入り、和田義盛、三浦義村ら多くの御家人が参加した。頼家が陪膳に伺候した工藤行光の3人の家人の一人を御家人に取り立てようというと、行光は「平家を追討して以降、亡父景光は戦場に赴き、万死に一生を得ること十度でした。行光も家業を継ぎ御家人になりましたが、頼みとするのはわずかこの3人のみです」と述べてやんわりと拒絶した。





参考文献

五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』(吉川弘文館)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(三)』(岩波文庫)/角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/塙保己一編『続群書類従 4下 補任部』「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(続群書類従完成会)