本巻について
以仁王の令旨が発せられて治承・寿永の内乱が惹起し、平家の南都焼き討ちに至る、内乱初年度の記録である。頼朝の挙兵、石橋山の戦い、富士川の戦い、知盛の近江遠征など名場面が目白押しだ。頼朝の勢力が急速に拡大する中、大庭景親・俣野景久・伊藤祐親・橘遠茂・長狭常伴ら、東国の平家家人が屈することなく戦うさまは圧巻である。特に伊藤祐清が頼朝の誘いを断り、平氏の下へはせ参じたくだりは、あっぱれなもののふの心意気をいかんなく示しており、本巻の白眉といえよう。
[凡例] 平家の一門・血縁者・家人は赤で示した。呼び方は原文どおりとし、適宜カッコで姓・苗字・諱を補った。なお、カッコは〈〉=原文の割注、()=編者(私)の注とした。
治承4年(1180)
4月9日-以仁王の乱と平氏追討令旨
源三位頼政は平相国禅門〈清盛〉を討ち滅ぼそうとかねて準備していた。頼政は頼朝ら源氏に平氏追討を命じる以仁王の令旨を送り、八条院蔵人の源行家を使者として派遣する。
4月27日-頼朝が以仁王の令旨を受領
行家が伊豆の北条館に到着し頼朝に令旨を渡す。平相国禅閤(清盛)が勝手に天下を管領して院近臣を処罰し、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉して怒りを受けている時に令旨が到着したので、頼朝は平家討伐の義兵を挙げようと考えた。
5月16日-以仁王の追討
以仁王の子の若宮が八条院にいたため、池中納言〈頼盛〉が入道相国(清盛)の使者として精兵を率いて御所に向かい、若宮を六波羅に連れ帰った。
5月26日-三井寺の追討
三井寺の衆徒が以仁王をかくまい平氏追討を計画。興福寺に援軍を求めるため源頼政一族とともに奈良に出発したため、左衛門督知盛朝臣・権亮少将維盛朝臣をはじめとする入道相国(清盛)の子や孫が2万騎の官軍を率いて追跡し宇治で合戦となり、頼政・仲綱父子や以仁王を討ち取った。
7月5日-僧覚淵の予言
走湯山の僧覚淵が北条館の頼朝と語り合い、「八逆を行う凶悪な八条入道相国(清盛)の一族を退治することは疑う余地がない」と伝える。
8月2日-大庭景親の帰郷
大庭三郎景親(元源義朝の家人。景義の弟)など以仁王の乱鎮圧のため在京していた東国武士が多く帰国した。
8月4日-頼朝が山木兼隆邸を調査
父である和泉守(平)信兼の訴えで伊豆に配流された散位平(山木)兼隆〈元検非違使尉、山木判官と号す〉は、平相国禅閣(清盛)の威を借りて権勢を高めた。頼朝は挙兵の標的に兼隆を選び、藤原邦通を派遣して周囲の地勢や館の絵図を作成させた。
8月6日-山木館攻撃の日時を占う
頼朝が邦通らを召して卜筮を行い、17日寅卯の刻を(山木)兼隆攻めの日時と決定した。
8月9日-大庭景親が佐々木秀義と対面
大庭三郎景親が佐々木秀義を招き、「上総介(藤原)忠清(平家の侍大将)が北条時政と比企掃部允が頼朝と謀反を企てているという情報を長田入道(系譜未詳)から入手し、相国禅閣(清盛)に知らせようとしている」との旨を伝える。
8月12日-山木館襲撃の日どりが決定
頼朝が8月17日に(山木)兼隆を討つことを決定。
8月16日-兼隆討伐の延期を検討
佐々木兄弟が約束どおり参着しなかったため、頼朝は味方の少ないことを案じて(山木)兼隆討伐の延期を検討する。
8月17日-頼朝の挙兵
頼朝が平家方の兼隆とその後見である堤権守信遠を襲撃した。この時、佐々木経高が放った矢が源氏が平氏を征する最初の一矢であった。信遠は優れた勇士であり、自ら太刀をとり戦ったが、佐々木定綱・高綱に討ち取られた。兼隆は頼朝が援軍として派遣した佐々木盛綱、加藤景廉に討たれた。頼朝は北条館の縁で兼隆主従の首を実検した。
8月19日-東国の施政の始め
(山木)兼隆の親戚である史大夫(中原)知親が蒲屋御厨(静岡県下田市・南伊豆町付近)で非法を働いていたので頼朝が停止を命じる。これが関東における施政の始めとなった。
8月23日-石橋山の戦い
平家方の大庭三郎景親・俣野五郎景久(景親の弟)ら3000余騎、伊東二郎祐親法師(曾我兄弟の祖父)の300余騎が石橋山において頼朝軍と交戦。景親は杉山に逃亡した頼朝を追撃して矢を放ったが、頼朝に通じていた味方の飯田家義に阻止される。
8月24日-梶原景時が頼朝を援助
大庭三郎景親の攻撃を受けた頼朝勢は戦場から逃れ、散り散りになって逃れるところ、北条宗時は祐親法師の軍勢に囲まれ(小平井)紀六久重に討たれた。景親は頼朝を追って峰や谷を探したが、梶原景時に欺かれ取り逃がす。
8月25日-波志太山の戦い
大庭三郎景親は頼朝を捕らえるため方々の道を固め、俣野五郎景久は駿河国目代の橘遠茂とともに甲斐源氏の武田・一条を討つため甲斐に向かい、波志太山で安田義定らに敗れる。一方、頼朝が逃れた箱根山では別当行実の弟で前廷尉(山木)兼隆の祈祷師だった智蔵房良暹が頼朝を襲おうとした。
8月26日-大庭景親が渋谷重国と会見
(大庭)景親は渋谷重国を訪れ佐々木定綱兄弟の妻子の引き渡しを求め拒まれる。
9月3日-長狭常伴が三浦義澄に敗北
平家方の長狭六郎常伴が安房に渡った頼朝の宿所を襲撃しようとして三浦義澄に敗れる。
9月7日-市原の戦い
信濃で木曾義仲が挙兵。平家方の小笠原(笠原)平五頼直は木曾方の村山七郎義直・栗田寺別当範覚と信濃国市原(長野市若里南市・北市付近か)で戦い勝利したが、義仲の大軍が救援に駆けつけると、越後の城四郎長茂の陣に加わるため越後に逃れた。
9月10日-大田切城の戦い
武田信義・一条忠頼は諏訪明神のお告げに従い出陣して、平家方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城を襲撃。冠者は戦うことなく館に火を放って自害した。信義たちは「菅冠者の滅亡は諏訪明神の罰であろう」と語り合った。
9月13日-東胤頼が下総目代を襲撃
東胤頼と千葉成胤が平家方の当国(下総)の目代を襲撃。目代は勢力のあるもので数十人に命じて防戦させたが、館に火を放たれ防戦もままならず胤頼に首をはねられた。
9月14日-藤原親政の捕縛
刑部卿忠盛朝臣の聟で下総国千田荘(千葉県香取郡多古町千田)の領家となっていた判官代(藤原)親政は平相国禅閤(清盛)に志を通わせていたので、目代が殺されたことを聞いて千葉常胤を襲撃しようとしたが、千葉成胤に生け捕りにされた。
9月17日-千葉一族が頼朝と合流
千葉常胤一族が下総国府に入り、捕虜となった千田判官代親政を頼朝に見せた。
9月19日-上総広常が頼朝に臣従
上総広常は日本国はすべて平相国禅閤(清盛)の支配下にあるので、頼朝に器量がなければ討ち取って平家に差し出そうと考えていたが、逆に頼朝に遅参をとがめられたためすすんで従った。
9月22日-近衛基通が平維盛に馬を贈呈
左近少将維盛が東国平定のため出陣するため、摂政近衛基通が御厩案主兵衛志(みうまやのあんじゅひょうえのさかん)清方を御使として羽林(維盛)に馬を贈った。嘉承2年(1107)12月19日、維盛の高祖父正盛朝臣〈時に因幡守〉が宣旨を受けて源義親追討に出陣した際、藤原忠実から馬を贈られた古例にならって行われたのだろう。
9月29日-平維盛が出陣
小松少将(維盛)が関東に出陣し薩摩守忠度、三河守知度らが従った。石橋山のことを知らせる(大庭)景親の報告に基づいて決定された。
9月30日-足利俊綱が上野府中を襲撃
平家方の足利太郎俊綱(藤姓足利家綱の子)が源氏に属する者が住んでいるとして上野国の府中の民家を焼き払う。
10月1日-橘遠茂が興津に着陣
駿河国目代である橘遠茂は甲斐源氏の襲撃に備えて、遠江・駿河の両国衙の軍勢を集めて興津(静岡市清水区北東部)に陣を構えた。
10月3日-伊北庄司常仲が敗北
上総国の伊北庄司常仲〈伊南新介常景の子〉(上総広常の一族)が千葉常胤の一族の追討を受け、長佐六郎(長狭常伴)の外甥であったため殺された。
10月13日-橘遠茂が甲斐源氏攻撃を計画
木曾義仲が上野国に入り、住人に(足利)俊綱を恐れることはないと命じる。駿河目代(橘遠茂)が長田入道の計略で富士野をめぐって甲斐に襲来してくるという情報を受け、武田信義ら甲斐源氏が出陣。
10月14日-橘遠茂が敗北
駿河目代(橘遠茂)が大軍を率いて甲斐国に向かう途中、鉢田(富士山の西麓あたり)で甲斐源氏と遭遇。長田入道の子息2人が首を取られ、遠茂は生け捕られた。
10月16日-平維盛が駿河に到着
13日、平氏の大将軍小松少将維盛朝臣が数万騎の軍勢を率いて駿河国手越駅(静岡市駿河区手越)に到着したことを聞き、頼朝が駿河に向けて出発した。
10月18日-大庭景親の逃亡
大庭三郎景親が平家の陣に加わるために1000騎で出発しようとしたところ、頼朝が20万騎で足柄を越えたので先に進めなくなり河村山(神奈川県山北町付近か)に逃亡した。頼朝が黄瀬川に着くと甲斐・信濃源氏、北条時政が合流し、菅冠者、駿河目代(橘遠茂)を討ち取ったこと、工藤景光が(俣野)景久と合戦したことを報告した。
10月19日-主馬判官盛綱が加賀美長清の下向を知盛に懇請
伊東次郎祐親法師が小松羽林(維盛)に合流しようとして捕らえられ、祐親法師の聟である三浦義澄に預けられた。祐親の次男である祐泰(祐清の誤り)は、かつて祐親に殺されかけた頼朝を助けた。頼朝が褒賞を与えようとしたが祐泰(祐清)は固辞して平氏に味方するために上洛した。その後、小笠原長清が到着した。長清は兄秋山光朝とともに知盛卿に仕えていたが、8月以降、関東への暇乞いを願ったが許されなかった。長清は高橋判官盛綱(越中前司盛俊の子か)から鷹装束について呼ばれた際、世間話の中でこのことを訴えた。盛綱は持仏堂に向かって手を合わせて恥じ入り、「当家の運はこの時に終わってしまうのか。抑留するとは家人を召し使うようなものだ」といって知盛卿に書状を送り長清の下向を提案した。そこで卿(知盛)はその書状の裏に返事を書き「長清の下向を(清盛は)は知っているが、反乱が続く時期に遠方へ行くのはその本意に背くので急いで帰洛するように」と伝えたという。
10月20日-富士川の戦い
頼朝が駿河国賀島(静岡県富士市の南西部)に入り、左少将維盛・薩摩守忠度・三河守知度が富士川の西岸に陣を張った。その夜半、武田信義が平家の背後を襲おうとしたところ、富士沼の水鳥が飛び立ち、その羽音を軍勢の来襲と勘違いした平家は驚き慌てた。平氏の次将上総介忠清は「東国の死卒はみな頼朝に味方しています。急いで京に戻り作戦を考えるべきです」と進言した。羽林(維盛)以下はそれに従い、夜明けを待たず京都に帰ってしまった。この時、平家方の伊勢国の住人伊藤武者次郎は、追撃する源氏方の飯田家義らと合戦し子息の飯田太郎を討ち取ったが、家義に討ち取られた。印東次郎常義(上総広常の兄弟常茂か)は鮫島(静岡県富士市鮫島)で誅された。
10月21日-佐竹氏の脅威
小松羽林(維盛)を追撃するため上洛を命じる頼朝に対し、千葉常胤・三浦義澄らは常陸国の佐竹氏が帰服しておらず、ことに(佐竹)四郎隆義(源義光の曽孫。母は藤原清衡の娘)は在京して平家に仕えていることを述べ、「東国を平定して上洛すべき」といって思いとどまらせる。
10月22日-伊藤武者次郎の首実検
飯田家義が伊藤武者次郎の首を持参して合戦の経過を報告。頼朝は家義が石橋山で(大庭)景親の軍に加わりながら逃がしてくれたこととあわせて勲功を讃えた。
10月23日-大庭景親が捕縛
頼朝が相模国府に入り、初めて御家人に勲功賞が下された後、捕らわれた大庭三郎景親が連行され、上総広常に預けられた。長尾新五為宗は岡崎義実に、長尾新六定景(いずれも長尾景行の子)は三浦義澄に預けられた。
10月26日-大庭景親の斬首
片瀬川で(大庭)景親の首が討たれてさらされた。弟の(俣野)五郎景久は平家に味方するためひそかに上洛したという。
11月2日-維盛が上洛
小松少将維盛朝臣以下、平家の諸将が何の功もないまま入京した。
11月12日-荻野俊重の処刑
荻野五郎俊重が石橋山の戦いで(大庭)景親に味方した罪で斬罪に処された。
12月1日-平知盛の近江遠征
左兵衛督平知盛卿が数戦の官兵を率いて近江国に下り、源氏の山本義経と弟の柏木義兼らと合戦した。知盛卿は多勢の利を生かして火を放ち、義経・義兼の館や郎従の宅を焼いて回ったので、義経・義兼らは逃亡した。ひたすら平相国禅閤(清盛)の意に逆らったため攻められたという。
12月2日-平重衡の出陣
蔵人頭重衡朝臣・淡路守清房・肥後守貞能らが東国に向かい出陣したが途中で帰洛した。
12月11日-平重衡の園城寺攻撃
平相国禅閤(清盛)は重衡朝臣を以仁王の乱に加担した園城寺に派遣し衆徒と合戦させた。頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵したため衆徒も味方するだろうと禅閤(清盛)が考え実行されたという。
12月12日-園城寺焼失
園城寺が平家のために焼失。金堂以下、堂舎や塔廟、大小乗の経巻や顕密の聖教がほとんど灰になったという。
12月19日-橘公長の鎌倉下向
橘公長と子の公忠・公成が鎌倉に到着した。公長は左兵衛督知盛卿の家人で、蔵人頭重衡朝臣が東国に出陣(中止)した際、前右大将〈宗盛〉の指示で添えられた。平家の運が傾いており、かつて長井斎藤別当(実盛)・片切景重と公長が喧嘩した際、為義が仲裁してくれたことを恩に感じ、大将軍の夕郎(重衡)を嫌って東国に下向したという。
12月22日-斉藤実盛の上洛
新田義重の孫里見義成が京から鎌倉に下向。その途中、駿河国千本松原(沼津市の狩野川河口から西の駿河湾岸にある松林)で長井斉藤別当実盛と瀬下四郎広親と出会った。その時、2人は「東国の有志はみな頼朝に従っているが、我々は平家と約束したことがあるので上洛するのだ」といったという。
12月25日-平重衡の南都出陣
重衡朝臣が平相国禅閤(清盛)の命により、数千の官軍を率いて南都の衆徒を攻めるため出陣した。
12月28日-南都焼き討ち
重衡朝臣が南都を焼き払った。東大寺・興福寺の堂塔は一つもこの災いを逃れることができず、仏像・経論も焼けてしまった。
参考文献
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵』(吉川弘文館)/龍粛訳注『吾妻鏡(一)』(岩波文庫)