甲斐・駿河

甲斐-韮崎

甲斐源氏の武田氏は新羅三郎義光の子義清(佐竹氏の初代義業の弟)が常陸国那珂郡武田郷(茨城県勝田市)を領したのに始まります。義清は甲斐国市河荘に配流されたまま土着し、子の加賀美遠光・安田義定、孫の信義らは治承・寿永の内乱で活躍しました。『吾妻鏡』が頼朝の武功として記す富士川の戦いも、実際は信義ら甲斐源氏が主導したものといわれています。一族の多くが頼朝に粛清される中、信義の一流は甲斐で発展し近世初頭まで続きました。武田氏の故地を訪れます。

願成寺の山門

願成寺

武田家家臣招魂の碑

招魂碑

武田氏累代の霊殿

願成寺霊殿

武田信義の800年追遠記念碑

追遠記念碑

願成寺の本堂

願成寺本堂

武田信義の墓所

武田信義の墓所

武田信義の墓

武田信義の墓

武田信義の800回忌の塔

800回忌塔

武田信義館跡

武田信義館跡

武田信義館跡

武田信義館跡

武田信義館跡

武田信義館跡

釜無川

釜無川

武田信義の騎馬像

武田信義像

武田信義の騎馬像

武田信義像

駿河-富士川

治承四年(1180年)八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いで大敗を喫したものの、船で安房に逃れた後、東国の在地武士を糾合し、またたく間に関東一帯を席巻しました。事態を重く見た福原の清盛は、平維盛・忠度を大将軍とする追討軍を派遣。しかし、諸国から募った駆武者が中心であったため軍の士気は上がらないうえ、本隊が駿河に到着した時は、すでに平家方の在地武士は甲斐源氏によって壊滅させられていました。圧倒的な源氏の大軍を前に、平家首脳部では合戦か撤退か軍議が重ねられましたが、そのさ中、甲斐源氏の動きに驚いた富士川の水鳥が一斉に羽ばたいたため、敵の襲来と錯覚した平家軍は壊走し、戦わずして源氏軍に敗北を喫したのでした。

平家越の碑

平家越の碑

平家越の碑

平家越の碑

富士川合戦レリーフ

富士川合戦レリーフ

和田川

和田川

平家越え橋

平家越え橋

飯森浅間神社

飯森浅間神社

飯森浅間神社

飯森浅間神社

飯森浅間神社

飯森浅間神社

富士川

富士川

富士川の水鳥

富士川の水鳥

富士川の水鳥

富士川の水鳥

駿府城

駿府城巽櫓

参考文献

関幸彦著『その後の東国武士団』(吉川弘文館)/川合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)/高橋昌明著『都鄙大乱 「源平合戦」の真実』(岩波書店)