相模
その1-鎌倉
源氏と鎌倉の関係は、源頼義が坂東平氏の族長だった平直方の婿になったときに始まります。治承4年(1180)10月、関東を制圧した源頼朝が入部して以後、幕府の拠点として整備され武家の都として繁栄しました。虜囚となった平宗盛や重衡、盛国、盛俊、頼朝に投降した平頼盛など平家の重鎮たちも訪れた宿敵源氏の拠点・鎌倉を訪れます。
その2-腰越
元暦2年6月、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経は、平宗盛ら平家の捕虜を連れて関東へ下ります。しかし、鎌倉入りを拒まれた義経は腰越で、自身の無実を訴える手紙(腰越状)を書いて大江広元に送りましたが、頼朝の心を動かすことはできませんでした。やがて頼朝に背いた義経は追われる身となって奥州へ下りましたが、藤原泰衡に裏切られ自害。その首は美酒に浸されて海路で腰越浦に届けられました。義経と因縁の深い腰越を訪れます。
川崎の義経伝説地
その3-藤沢
腰越の浦にもたらされた義経の首は、その後、腰越の北の藤沢にたどり着き手厚く葬られたという。藤沢市の白旗神社とその周辺には、義経・弁慶主従にまつわる史跡が多く残されている。腰越を訪れた際はぜひ立ち寄ってみたい。
その4-田越川
嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜んでいた平維盛の嫡子六代は、平家滅亡後、密告により鎌倉方に捕えられます。六代の乳母に懇願された神護寺の文覚は、頼朝に願って六代を助命し自身の弟子としました。しかし、頼朝の死後、文覚が配流され六代を庇護する者がいなくなると、幕府によって捕えられ、相模の田越川で処刑されたといわれています。
関連史跡-国香・貞盛の史跡
参考文献
五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡(1)』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬/元木泰雄/勝山清次著『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』(中央公論新社)/ 五味文彦著『源義経』(岩波新書)/五味文彦著『体系日本の歴史5 鎌倉と京』(小学館ライブラリー)/日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/ 角田文衛著『平家後抄(下)』(講談社学術文庫)/ 志村有弘著『平家物語の旅 源平時代を歩く』(勉誠出版)/江島神社公式サイト