尾張
その1-熱田神宮
尾張国三宮の熱田神宮は草薙剣を神体とする神社です。『平家物語』では巻八「法住寺合戦」に上洛途中の範頼・義経が駐屯したこと、巻十一「剣」に神代から伝わる霊剣「あまのはやきりの剣」を伝える神社として紹介されています。巻三「大臣流罪」には、治承3年のクーデターで尾張に流された太政大臣藤原師長(悪左府頼長の次男)が熱田明神で朗詠し琵琶の秘曲を弾じたところ、神明感応し宝殿が震動したことが記されています。師長は「平家の悪行なかりせば、今この瑞相をいかでか拝むべき」といって感涙を流しました。
その2-野間
平治元年(1159)12月、平治の乱に敗れた源義朝は再起を図るため東国へ落ちました。平家軍の追撃や落ち武者狩りを振り切り、ようやく尾張にたどり着いた義朝は、乳母子の鎌田正家とともに、累代の家人で正家の妻の実家である尾張の内海荘司・長田忠致の屋敷に逗留します。しかし、変心した忠致は、入浴中の義朝を襲ってこれを殺害、鎌田も饗宴と見せかけて討ち果たします。以後、源氏の勢力は大きく後退し、20年におよぶ雌伏の時期を迎えることになるのです。義朝最期の地である野間を訪ねます。
関連史跡-金王八幡宮
その3-大御堂寺
野間大坊(大御堂寺)は、役行者の開創、行基の開基と伝わる名刹で、白河天皇の時代に一山を再興し、勅願寺とされて大御堂寺と名付けられました。池禅尼ゆかりの寺としても知られ、建久元年(1191)に頼朝によって禅尼の念持仏が奉安されたと伝えられています。境内には源義朝、鎌田正家の墓、池禅尼の供養碑などが残され、悲運の武将を悼む人々のよすがになっています。
その4-墨俣
墨俣はかつて木曽川・長良川・揖斐川が網状に流れ、鎌倉街道も通る交通の要衝で、美濃と尾張の国境、東西を分ける境界とされていました。治承5年(1181)3月10日、この場所で平重衡・通盛・維盛らの率いる平家軍3万余騎と、源行家と義円(義経の同母兄)率いる源氏軍6000余騎が激突しました。この墨俣川の戦いは平家軍の圧勝に終わり、東海道方面の源氏の脅威はいったん除かれました。承久の乱では京方と幕府軍の最初の激戦地となり、戦国時代には木下藤吉郎が一夜城を築いたことでも知られる墨俣を訪ねます。
周辺史跡
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一・二)』(岩波文庫)/上横手雅敬著『鎌倉時代 その光と影』(吉川弘文館)/丸山二郎校注『愚管抄』(岩波文庫)/ 岸谷誠一校訂『平治物語』(岩波文庫)/ 元木泰雄著『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)/ 川合康著『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館)/元木泰雄著『源頼朝』(中公新書)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡(3)』(吉川弘文館)/安田元久著『平家の群像』(塙新書)/上杉和彦著『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館)/『歴史街道2022年4月号』(PHP研究所)/熱田神宮公式HP/金王八幡宮公式HP/満福寺公式HP