武蔵・下野
その1-班渓寺
義仲は父義賢が大蔵館に拠点を置いた仁平3年(1153)に生まれました。母の小枝御前は大蔵館の西の鎌形に営まれた別邸に住み義仲を生んだといわれています。現在この場所は班渓寺という寺院になっていて「木曽義仲公誕生之地」の碑が建てられています。北東にある鎌形八幡神社は坂上田村麻呂の創建とされ、義賢・義仲ゆかりの神社、源氏の氏神として尊崇されました。後世「朝日将軍」と呼ばれた義仲の生誕の地を訪れます。
その2-大蔵館
義仲の父義賢は仁平3年(1153)、児玉党を頼って上野国多胡荘に下り、その後、秩父重隆の養子となって武蔵国比企郡大蔵に拠点を置きました。しかし久寿2年(1155)、鎌倉から北関東への勢力拡大をもくろむ甥の源義平(源義朝の長男)の襲撃を受けて殺害されます。2歳だった義仲は斎藤実盛、畠山重能らに助けられ、信濃国木曽に逃れました。義仲の運命の転換点となった大蔵館跡を訪ねます。
その3-長井
斎藤実盛は越前出身ながら武蔵国長井荘を拠点とし“長井別当”を称しました。保元の乱の頃は源義朝に仕え、平治の乱の後、平家の家人となりました。埼玉県熊谷市西野には実盛の館跡があり、子孫が立てたという板碑があります。国宝聖天堂のある観喜院は実盛の創建とされており、境内には白髪を黒く染める実盛像を見ることができます。源平に仕えた剛の者・実盛の故地を訪ねます。
関連史跡
その4-深谷
“鎌倉武士の鑑”ともいわれる畠山重能・重忠父子は秩父平氏の一族です。もとは平家の家人でしたが、頼朝の挙兵後、鎌倉幕府の御家人になりました。大蔵館の北数百メートルの嵐山町菅谷にある菅谷館跡は畠山重能が館を築いた跡といわれ、二の郭跡に重能の子重忠の石像が建てられています。深谷市畠山には菅谷館を築く以前の畠山氏の館跡が史跡公園となっており、重忠と家臣の五輪塔や重忠産湯の井戸などがあります。
関連史跡-武蔵国府・国分寺跡
その5-湯西川
北は青森から南は鹿児島まで、全国各地に点在する平家落人伝説地。その多くは事実を称する確実な史料はなく、隠田を耕作していた集落や系図師による偽作の可能性も指摘されていますが、厳しい環境の中で雄々しく生きた人々の矜持の表れでもありました。平家伝説地の中でも、関東有数の知名度を誇る日光市の湯西川温泉を訪ねます。
その6-足利
下野国足利荘(栃木県足利市)は康治元年(1142)、八幡太郎義家の子義国が所領を京都の安楽寿院に寄進して成立しました。義国は足利郡司として在地に根を張る藤原秀郷流の藤姓足利家綱を家人として勢力を伸ばしますが、やがて南部の梁田御厨の領有などをめぐって対立関係に陥ります。治承・寿永の内乱がはじまると、源姓足利義兼(義国の孫)は鎌倉御家人として活躍し、藤姓足利俊綱・忠綱父子は平家の家人、反鎌倉方として戦いました。
藤姓足利氏の史跡
参考文献
白洲正子著『謡曲 平家物語』(講談社文芸文庫)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡5 征夷大将軍』(吉川弘文館)/川合康著『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社選書メチエ)/『真説 歴史の道24 平家流転』(小学館ウィークリーブック)/全国平家会編『平家伝承地総覧』(新人物往来社)/野口実著『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)/五味文彦著『日本の中世を歩く』(岩波新書)/府中観光協会公式HP/大國魂神社公式HP