熊野
その1-新宮
院政期は熊野三山(本宮・新宮・那智)をめぐる熊野詣が流行しました。白河上皇以降、歴代の治天の君がたびたび熊野を訪れ、その回数は白河院9回、鳥羽院21回、後白河34回、後鳥羽は28回に及んだといいます。平家一門も深く熊野を信仰しました。清盛の船に鱸が飛び込んできたという『平家物語』巻一「鱸」の逸話は熊野参詣途上のできごとです。平治の乱における源義朝の挙兵は、清盛が熊野参詣に出かけたすきをついて行われました。同巻三「医師問答」には、父の悪行に悩んだ重盛が息子たちを連れて熊野に詣で、自身の寿命を縮めてほしいと願ったことが記されています。平家一門・歴代上皇が尊崇した熊野を訪れます。
その2-那智
熊野那智大社は本宮・新宮と並ぶ熊野三山の一つ。那智の滝を崇める自然信仰が起源と考えられ、仁徳天皇5年(317)に那智山の中腹に社殿が建立されたともいわれています。僧侶や修験者の修行場としても知られており、『平家物語』では出家した文覚が真冬の那智にこもり滝に打たれる荒行を行ったことが記されています。また、屋島を抜け出した維盛も本宮・新宮に参った後、那智の滝を祀る飛瀧権現に参拝しています。深遠な自然に包まれた信仰と修行の地、那智山を探訪します。
その3-補陀洛山寺
補陀落渡海とは、南海の彼方にあると信じられた極楽浄土をめざし身を捨てる仏道修行のこと。その出発点の一つとして知られるのが那智勝浦町にある補陀洛山寺です。同寺の石碑には、9世紀末から18世紀前半までに行われた20回以上の渡海の記録が残されています。落魄の運命に絶望して屋島を脱した維盛は、寿永3年(1184)3月28日、かつて浜の宮王子と呼ばれたこの場所から万里の蒼海に浮かび、入水自殺を遂げました。悲劇の公達、維盛最期の地を訪れます。
参考文献
宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀(上)』(講談社学術文庫)/梶原正昭・山下宏明校注『平家物語(一・二・四)』(岩波文庫)/梶原正昭校注『日本古典文学全集 義経記』(小学館)/馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』(講談社学術文庫)/佐佐木信綱校訂『新訂 梁塵秘抄』(岩波文庫)/糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/木村茂光『中世社会の成り立ち』(吉川弘文館)/中丸満『平清盛のすべてがわかる本』(NHK出版)/全国平家会編『平家伝承地総覧』(全国平家会)/熊野三山協議会公式HP/新宮市観光協会公式HP/日本風景街道熊野公式HP/那智勝浦観光サイト公式HP