洛東・洛北編
その1-長楽寺・雙林寺
長楽寺は延暦24年(805)、桓武天皇の勅命のもと最澄によって創建されました。平家物語によると文治元年(1185)、壇ノ浦で捕らえられた建礼門院徳子は、当時の住職・阿証房印誓を戒師として出家(史実は大原来迎院の本成房とされる)。布施として安徳天皇が今際の際まで召されていた形見の直衣を結い直した16旒の仏幡を進じ、菩提を弔ったといわれています。この幡のうち2旒が現在まで伝わっており、4月1日~5月10日の特別展で一般公開されています。
その2-清水寺
清水寺は平安時代、観音霊場として貴族ばかりでなく、広く一般庶民からも尊崇を受けました。平治の乱で敗れた義朝の妾・常葉も、観音に深く帰依していたので、今若、乙若、牛若の3子を連れて一時隠れました。平安中期には興福寺の末寺であったために、延暦寺と興福寺との抗争に巻き込まれ、たびたび火をかけられます。『平家物語』巻一「清水寺炎上」の章段には、延暦寺の大衆によって「仏閣僧坊一宇も残さ」ないほどに焼かれる場面が描かれています。
その3-清閑寺
『平家物語』が語る数々の悲恋のうち、横笛の逸話と並んで有名なのが小督と高倉天皇の哀話です。高倉天皇の寵愛を受けていた小督は、藤原隆房の恋人でもありました。いずれも清盛の娘婿。二人の婿をとられた清盛は怒りに燃え、迫害を恐れた小督は一人宮廷を去ります。間もなく天皇に呼び戻された小督は、夜な夜な召し出されるうちに高倉の皇女を出産。これを知った清盛は激怒し、小督を尼にして追放したと物語は記します。小督が出家を遂げたとされる清閑寺を訪れました。
その4-くろ谷
一ノ谷の戦いで捕らわれの身となった平重衡は、出家を望んだが許されず、「年頃契ったりし聖(年来師と仰いでいる上人)」である黒谷の法然との対談を望んで許可されました。法然は来世での極楽往生に至る道を説き、額にかみそりを当てて剃るまねをし、 戒を授けたといわれています。くろ谷金戒光明寺は法然が初めて草庵を営んだ場所で、後年弟子となった熊谷直実ゆかりの地。幕末には京都守護職松平容保の会津藩本陣となりました。
洛北-寂光院
壇ノ浦で捕らえられた建礼門院徳子は、出家後、阿波の内侍(信西入道の娘)、大納言典侍(重衡の正妻)とともに、ここ大原の寂光院に遁世しました。墨染の衣をまとい、安徳天皇と平家一門の菩提を弔いながら、隠遁の日々を過ごす女院。そんなある日、平家を滅亡へと追いやった張本人とも言える後白河法皇が、わずかな供を引き連れて寂光院を訪れます。一方流語り本「平家物語」の最後を飾る「潅頂巻」は、寂光院における法皇と女院との対面の様子を通して、女院の複雑な心の内を細やかに描き出していきます。
周辺史跡
参考文献
小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく6 清水寺』(小学館)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 日下力監修『平家物語を歩く』(講談社カルチャーブックス)/ 『源義経と源平の京都』(ユニプラン)/角田文衛著『平家後抄』(講談社学術文庫)/ 志村有弘著『平家物語の旅 源平時代を歩く』(勉誠出版)/ 学研ムック『源平ものがたり』(学研)/ 黒田俊雄著『日本の歴史8 蒙古襲来』(中公文庫)/ 中丸満著『平清盛のすべてがわかる本』(NHK出版)/小柳素子著『歌人が歩いた平家物語』(角川学芸出版)