南都編
その1-東大寺
治承4年(1180)12月、平氏軍は以仁王に加担した園城寺(三井寺)を焼き討ちにした後、返す刀で今度は反平氏勢力の急先鋒、南都(奈良)の征討に赴きます。大将軍は清盛の五男平重衡でした。27日に始まった合戦は、翌日になっても決着がつかない。28日夜半、暗さは暗し、夜戦に備え、重衡の命令により民家にかけられた火は折からの烈風に煽られ、またたく間に寺々に延焼。東大寺・興福寺をはじめ南都七大寺の多くを焼き尽くしたのでした。
その2-興福寺
興福寺は藤原氏の氏寺として、奈良時代以来、長きにわたって多くの貴族の尊崇を集めました。源平争乱の時代には反平氏勢力の拠点として、南から京都の平氏政権を脅かしましたため、比叡山に対しては軋轢を避け、融和策に終始した清盛も、興福寺には徹底して厳しい態度で臨みました。南都焼き討ちにより灰燼に帰した同寺の惨状を耳にした九条兼実は「忽ち我氏の破滅を見る」と嘆いたといいます。
その3-春日社
春日社は藤原氏の氏神で、神仏習合が進んだ平安時代以降、氏寺の興福寺と一体の存在でした。院政期以降、荘園をめぐる受領と寺社勢力の対立が激しくなると、有力寺院は自らの権益を守るため朝廷に対してたびたび強訴におよびます。その中心となったのが、南都北嶺と呼ばれる延暦寺とここ興福寺でした。延暦寺が日吉社の御輿を奉じたのに対し、興福寺も春日社の神木を押し立てて京中に乱入しました。その神威の前に貴族たちは怖れおののき、さしもの上皇・天皇もしばしば屈服せざるを得なかったのでした。
周辺史跡
その4-木津
寿永3年(1184)2月、一ノ谷の合戦において、一門で唯一人囚われの身となった平重衡は、翌年3月に一門の大多数が壇の浦で滅びると、奈良の大衆は南都焼き討ちの張本人として、南都の大衆に引き渡されることになりました。滋賀の大津から逢坂の関を超えて山科を南下。途中、日野で北の方・大納言佐と今生の別れを惜しんだ後、大和街道を奈良へと向かいます。木津川畔に引き立てられた重衡は、旧臣・木工右馬允知時が近所から借り受けてきた阿弥陀仏に向かって念仏を唱えながら斬られたといいます。
関連史跡
その5-長谷寺
平家が壇ノ浦に滅びると、鎌倉方による厳しい平家の子孫狩りが始まりました。維盛の遺児六代も、密告によって捕らわれます。六代の乳母から助命を頼まれた文覚上人は、鎌倉に下って頼朝から赦免状をもらい、処刑寸前に六代を救い出すことに成功。長谷寺の観音に延命祈願していた母や乳母は、観音の利生により再会を遂げ、六代は文覚に引き取られました(「泊瀬六代」)。『源氏物語』『枕草子』など平安女流文学にも数多く登場する、観音信仰の霊地・長谷寺を訪ねます。
その5-吉野
桜の名所として知られる吉野は、古くから政争に敗れた人々がしばしば身を潜めた場所でもあります。飛鳥時代には大海人皇子が皇位への意思のないことを示すためにここに退き、南北朝時代には足利尊氏に敗れた後醍醐天皇が、再起を図るべくここに御所を構え南朝を開きました。兄頼朝と敵対し京を追われた義経が、大物浦で遭難したのち、静御前や弁慶とともに一時身を潜めたのも、ここ吉野でした。義経と静の今生の別れとなった運命の地を訪れます。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡(二)』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(下)』(塙新書)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(小学館)/ 小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく2 東大寺』(小学館)/ 小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく5 興福寺』(小学館)/ 小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく5 長谷寺と飛鳥の名刹』(小学館)/小学館ウイークリーブック『週刊古寺をゆく21 金峯山寺と吉野の名刹』(小学館)/東大寺公式HP/興福寺公式HP/新薬師寺公式HP