奥州平泉
その1-中尊寺
中尊寺は嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁が開創。その後、平泉に政庁を定めた藤原清衡が長治2年(1105)に建立に着手、20年の歳月をかけて完成させました。往時の伽藍は堂塔40余宇、僧坊300余という壮大なもので、多くの堂に京の工芸技術を導入して造られた仏像や仏具が安置されていたといわれています。平成23年(2011)には、「平泉 ─ 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として、毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡などとともに世界遺産に登録されました。
その2-毛越寺・観自在王院
奥州藤原氏2代当主・藤原基衡造営の毛越寺。『吾妻鏡』によると、往時は全山の堂塔40、僧坊は500を数え、中尊寺をしのぐ規模と華麗さであったといいます。その後、度重なる災禍ですべての建築物が焼失しましたが、現在でも大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。
その3-柳之御所・無量光院
後三年の役において奥州の覇者となった藤原清衡は、平泉に居館を構えました。以来、基衡、秀衡と3代にわたって、栄華を極めた奥州藤原氏は、この地に京・鎌倉に並ぶ日本有数の都市を築きました。しかし、平家を倒し全国制覇の野望に燃える源頼朝は、源義経をかくまったことを口実に、秀衡亡き後の奥州に出兵。文治5年(1189)8月、黄金都市平泉を中心に花開いた奥州藤原氏の栄華は、100年の歴史に終止符を打ったのでした。
その4-高舘・衣川古戦場跡
文治5年(1189)閏4月、奥州藤原氏4代当主藤原泰衡は、鎌倉からの再三の要求に屈服し、秀衡存命中より匿っていた源義経をその居館・高舘に攻め、自害に追い込みます。『義経記』によると、この戦いで義経股肱の臣は相次いで討ち死にし、中でも武蔵房弁慶は大長刀を持ったまま全身に矢を受け「立ち往生」を遂げたと伝えられています。
関連史跡
八戸の義経伝説地
旭川の義経伝説地
参考文献
五味文彦著『西行と清盛』(新潮選書)/上横手雅敬著『源平の盛衰』(講談社学術文庫)/ 志村有弘著『平家物語の旅 源平時代を歩く』(勉誠出版)/ 高橋崇著『奥州藤原氏 平泉の栄華百年』(中公新書)/ 斉藤利男著『平泉 よみがえる中世都市』(岩波新書)/斉藤利男著『平泉 北方王国の夢』(講談社選書メチエ))/ 小学館ウィークリーブック『週刊古寺をゆく4 中尊寺』(小学館)/ 『週刊日本の街道12 奥州街道3』(講談社)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡4』(吉川弘文館)/中尊寺公式HP