北陸
その1-越前
治承5年(1182)6月、親平家の越後の豪族城助職(長茂)が横田河原の戦いで木曾義仲に敗れると、平家の知行国が多い北陸道でも多くの在地武士が反平家の態度を鮮明にしました。義仲の勢力も越中まで進出してくる中、平家は生命線である北陸道を掌握するため、養和元年(1181)8月、若狭へ但馬守平経正、越前に平通盛を追討使として派遣しましたが、越前国府に入った通盛は在地勢力の攻勢を受けて敦賀に敗走しました。寿永2年(1183)の北陸遠征の前哨戦の部隊となった越前を訪れます。
その2-護國八幡宮
信濃に挙兵後、破竹の進撃を続ける木曽義仲を追討するため、寿永2年(1183)、平家は維盛、忠度らを大将とする4万余(『玉葉』による。『平家物語』では10万余)の大軍を北陸道に派遣します。砺波山に侵攻してきた平家軍を迎え撃つべく、埴生に陣を布いた義仲が先勝祈願をしたのが、ここ護國八幡宮(埴生八幡宮)です。『平家物語』によると、義仲の右筆大夫坊覚明書いた願書を鏑矢とともに奉納すると、山鳩が3羽現れて白旗の上を翻った。それを見た義仲は馬を下りて兜を脱ぎ、手水・うがいをして山鳩を拝したといいます。
関連施設-倶利伽羅峠源平の郷
その3-倶利伽羅峠
越前・加賀で反平家勢力を破った平家軍は、加賀の篠原で軍勢を2手に分け、大手7万騎を加賀と越中の国境にある砺波山に向けました。寡勢の義仲は、日中矢合わせで時間を稼いだ後、夜襲を敢行。平家軍は倶利伽羅峠の谷底へ追い落とされ、谷底は平家勢7万騎で埋め尽くされたといわれています。その悲惨な状況を『平家物語』は「巌泉血を流し、死骸岳をなせり……」と記しています。
その3-篠原古戦場
倶利伽羅峠の戦いで大敗しわずか2000騎となった平家軍は、加賀国篠原で態勢を整え追撃する義仲軍を迎え撃ちます。酷暑の中、激戦を繰り広げられましたが、木曾方の今井兼平・樋口兼光らの活躍で平家軍の主要な将が討ち取られ、平家軍は京に敗走しました。討ち死にの覚悟を固めて合戦に臨んだ斎藤実盛は、白髪を黒く染め、錦の直垂を着て最期の戦いを繰り広げ、名乗らずに討ち取られたといいます。老武者が故郷に錦を飾り、平家の凋落を決定づけた篠原の古戦場をめぐります。
その4-多太神社
石川県小松市の多太神社は、篠原の戦いの後、木曾義仲が斉藤実盛の兜鎧の大袖などを奉納した場所といわれ、今も実盛所用の兜が社宝として伝えられています。『奥の細道』の旅で同地を訪れた松尾芭蕉は「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んで古の老武者をしのびました。
その5-安宅の関
平家を滅亡に追い込んだ悪行が祟ったものか、平家追討の最大の功労者であったはずの義経は一転、鎌倉の追捕を受ける身になりました。安宅の関は吉野や比叡山に潜伏した後、奥州を目指した義経一行が最大の危機を迎えたところ。東大寺再建の山伏に身をやつした義経一行は、富樫介の詮議により危うく正体が暴かれそうになる。しかし、弁慶の機転と富樫介の厚意により、かろうじて関所を突破することができたのでした。
その6-能登時国家
「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し、その権勢から「平関白」と呼ばれたといわれる平時忠。平清盛の義弟、高倉天皇の外戚として朝廷で絶大な権力を握り、平家都落ち後は一門の重鎮として影響力を保ち続けました。その希代の策士も、壇ノ浦の戦いで捕らわれの身となった後、幕府の追及を受けて能登に配流されます。そして、文治5年(1189)2月、赦免の望みを抱いたまま、能登の配所で63歳の生涯を閉じたのでした。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』『平家物語(三)』(岩波文庫)/高橋昌明著『都鄙大乱』(岩波書店)/永井晋著『源頼政と木曽義仲』(中公新書)/安田元久著『平家の群像』(塙新書)/上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/角川書店編『日本史探訪6 源平の争乱』(角川文庫)/角田文衛著『平家後抄(上)』/週刊日本の街道60『能登路』(講談社)/真説歴史の道24『平家流転 平時忠』(小学館)/穎原退蔵・尾形仂訳注『新版 おくのほそ道』(角川ソフィア文庫)/安西篤子・佐方郁子ほか『源平ものがたり』(学研)/福井県観光連盟公式サイト/石川県神社庁公式サイト