備前・備中
その1-有木
新大納言藤原成親は、鹿ヶ谷事件の首謀者の一人。捕縛された成親はあやうく死罪を言い渡されるところを、重盛の嘆願により罪一等を減じられ、難波次郎経遠を監視役として備前国へと流されます。その後、経遠によって備前の児島から有木の別所へ移されるものの、成親に対する清盛の怒りは消えることなく、治承元年(1177)8月、ついに吉備の中山で壮絶な最後を遂げるのです。
その2-妹尾
妹尾兼康は備中国都宇郡妹尾郷(岡山市南区妹尾)を拠点とする平家の有力家人で、平正盛・忠盛が西国の国守に補任されたことを機に主従関係を結んだと考えられています。北陸遠征で木曾義仲軍に捕らえられた兼康は、寿永2年(1183)閏10月、義仲軍の西国遠征の案内役となり備前に下った際に挙兵。備前の福竜寺縄手・笹のせまりに城郭を構えて源氏軍に抵抗しましたが今井兼平の軍勢に敗れ、逃げ遅れた嫡子宗康を助けようとして討ち死にしました。義仲は「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人当千の兵といふべけれ」といってその死を惜しんだといいます。平家に殉じた相伝の家人の故地を訪ねます。
その3-藤戸
寿永3年(1184)9月(『吾妻鏡』によると合戦は12月)、一ノ谷の合戦に敗れ、屋島に退いた平家を追討するべく、源範頼を大将軍とする源氏軍は西国へ向けて出発します。源氏軍の動きを察知した平家軍は資盛・有盛・忠房を大将軍(『吾妻鏡』では平行盛)に、越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景清らを侍大将として備前国小島(児島)に進出、源氏軍も藤戸に陣を取ります。源平両軍は25町を隔てて対峙しますが、船のない源氏は平家を攻めることができません。しかし、源氏の武将佐々木三郎盛綱は地元の漁夫から浅瀬の場所を探り、馬で海を渡して先陣に成功。意表をつかれた平家軍は屋島へと後退するのです。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一・三・四)』(岩波文庫)/五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡(2)』(吉川弘文館)/慈円著・大隅和雄訳『愚管抄』(講談社学術文庫)/高橋昌明著『都鄙大乱 「源平合戦」の真実』(岩波書店)/上横手雅敬著『日本史の快楽 中世に遊び現代を眺める』(角川ソフィア文庫)