清盛の優しさ1~頼朝・義経助命のこと
池禅尼の嘆願で頼朝は助命
平治の乱は官軍である清盛側の圧勝に終わり、謀反人となった源義朝は、家人の長田忠致に殺されました。義朝の三男・頼朝は落ち延びる途中に父とはぐれ、頼盛の郎等弥平兵衛宗清に捕らわれて六波羅に連行されてしまいます。一方、義朝の愛妾で九条家の雑司女常盤は今若・乙若・牛若の三児を連れて、六波羅の追及から逃れようとしますが、常盤の母が六波羅に連行されたと聞いて、これも自首をしてしまいます。こうして四人の源氏の血を引く男子が囚われの身となるのですが、清盛は謀反人・義朝の子として、これらの男子をすべて殺すことにしました。後々までの禍根を断つという意味で、これは武家としては当然のことなのでした。
清盛が身内に甘いというのは、政権奪取後の一族への贈位贈官などをみてもわかるのですが、女の人にはとくに甘かったのでしょうか。父忠盛の後妻で清盛には継母にあたる池禅尼という人がいたのですが、この池禅尼は当時13歳だった頼朝にひどく同情します。そこで重盛を介して頼朝の助命を清盛に嘆願するのでした。最初はそのような同情は一蹴した清盛でしたが、結局は折れてしまい、頼朝は伊豆へ配流となりました。謀反人の子であり、源氏の嫡宗である頼朝を助けてしまったことは、致命的な失敗だったといえるでしょう。しかも、ところもあろうに源氏の勢力の強い関東に下してしまったのです。
清盛も内心では頼朝に同情していたのではないでしょうか。政治性のない武弁一徹の父親のために、罪のない少年を殺すのは忍びないという気持ちがあったのだろうと思います。それなのに治承4年(1179)に頼朝は挙兵し、あっという間に関東を制圧してしまうのです。清盛が怒ったのも無理はありません。本当かどうかは分かりませんが、清盛が、自分の死後は通常の仏事・供養をするかわりに、頼朝の首を仏前に供えよ、と言ったといいますが、もっともな話だと思います。
義経助命は平家滅亡の序曲
さて、常盤腹の三人の男子も助命されます。源氏の嫡子であり、しかも13歳の頼朝が助命されたのですから、8歳の今若、6歳の乙若、そしてまだ乳飲み子の牛若を殺すわけにはいかなかったのでしょう。そのかわり清盛は、当時評判の美人だった常盤を手に入れました。「ひどいじゃないか」と言われる方もあるかも知れませんが、こうしたことも戦いの勝者としては、めずらしいことではありません。ちなみに後日、常盤は清盛の女子を身ごもり、産まれた子は“廊の御方”といわれ、都落ちから壇ノ浦に至るまで平家と行動をともにしたのでした。
ご存じのように牛若は後の源義経です。そしてこれまた周知のように、直接的に平家を滅亡に追いやったのは義経ですから、この助命も清盛としては大失敗だったわけです。リードにも書いたことですが、別に頼朝・義経がいなくても平家政権はそれほど長続きはしなかったでしょう。平家を倒したのは直接的には頼朝であり義経だったわけですが、結局、治承・寿永の内乱というのは根本的に地方武士の不満の鬱積した結果引き起こされたと思うからです。つまり“歴史の必然”だったわけです。しかし、頼朝・義経がいなければ、平家はあれほど悲惨な滅び方をしなかったのではないでしょうか。この兄弟には、平治の乱において父が誅されたという、いってみれば“恨み”があり、単に自らの権益を守るといった淡泊な理由だけではなかったのです。だから、宗盛は生きたまま都を引き回されたあげく、斬首の後には獄門に首を架けられました。三位以上の者が首をさらされるという、それまでは例のなかった恥辱を、平家の惣領である宗盛に強いたのでした。
では、清盛の“悪”を規定する事柄とは、具体的にはどのようなことだったのでしょうか。法皇の幽閉、福原遷都、南都焼き討ちなどは真っ先に挙げることができるでしょう。これらは歴史的にも大きな事件ですし、政策的にみてもゴリ押し気味な点もあることから、あるいは“悪”と規定されても仕方のない面もあるかも知れません。殊に京の公家を中心とした当時の社会にあってみれば、これらは文字通り神をも恐れぬ不逞の行為だったのです。
しかし、平家物語にはこのような政策への批判を超えた、清盛に対するもっと深い部分での“畏怖”が、あるように思います。作家の永井路子氏が、「清盛に対して『平家』は口をすぼめ、ちょっとおどおどして「こんなことをなさって、まあ」という感じで語っているが…」といっておられるように、遠慮といっては言い過ぎですが、少なくとも義仲に対してのような“茶化し”はあまりありません。
もちろん、巻二「教訓状」で、突然やって来た重盛に鎧を着ているのを見られまいと、上に羽織った素絹の衣をしきりに引っ張って隠そうとするような、ユーモラスな場面もあるにはありますが、多くの場合、まさに「こんなことをなさって」といった態度で批判をしています。おそらく、清盛の対する“畏怖”は、清盛の政治的地位や武力だけではない、人間そのものに対する畏怖というものも含まれているのではないでしょうか。そして、そうした“畏怖”は、さまざまな伝説をも伝えることになります。
平家物語の巻六では、清盛の死を描いた「入道死去」の章の後に、清盛についての様々なエピソードや噂が紹介されています。「築島」の章では、清盛について「まことはただ人ともおぼえぬ事どもおほかりけり」といっており、当時の人々が清盛に抱いていた神秘性のようなものが垣間見られます。そして、清盛は忠盛の子ではなく白河院の皇子であった、といった有名なものから、実は清盛は慈恵大師良源(叡山中興の祖として、宗祖最澄を凌ぐほどの信仰を集めた名僧)の生まれ変わりだとする珍説までが披露されています。
分をわきまえた清盛の配慮
しかしそれは逆恨みもいいところで、平治の乱はあくまでも浅慮な藤原信頼が、これまた浅慮で政治性のない義朝と共謀して起こした正真正銘の謀反だったわけですから、清盛としては朝廷と我が一族を守るために、これと対決せざるを得なかっただけなのです。このときの清盛には、政治的にはともかく、武力による野心などはおそらくなかったでしょうし、私の野望だけで反乱を起こした信頼・義朝は誅せられてしかるべきであったといえるのです。清盛は売られた喧嘩を買っただけなのです。
頼朝・義経を助命するということは、清盛にとっては、武士の立場からも、政治家としての立場からも、何ら益するところのないということは、清盛自身承知していたはずです。それをあえてしたということは、これは純粋に清盛の優しさ、慈悲心であったといっても良いのではないでしょうか。
また、乱を鎮圧した今となっては、源氏に対してこれ以上追い打ちをかける必要もないと思ったのかも知れません。首謀者である義朝はすでに誅され、乱には一応の決着がつきました。それに加えて嫡子である頼朝を殺すということになれば、そこから先は朝廷とは何ら関係のない源氏と平家の相克という私的な領域になってしまいます。平家の使命はあくまで朝廷の守護である、という自覚が清盛にはあったのでしょう。だから、この乱を利用してライバルである源氏を根絶やしにしようとは思わなかった。“人情のひと”清盛は忠義な功臣でもあったのです。
参考文献
日下力著『古典講読シリーズ・平治物語』(岩波書店)/ 角田文衛著『平家後抄(上)』(講談社学術文庫)