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貞盛による平将門追討~坂東平氏の覇権確立

東国に根を張る高望流平氏

 9世紀後半、上総介となって東国に下向した平高望でしたが、彼には国香、良持、良兼、良正、良文らの子息がいました。それぞれ土着の有力氏族として坂東各地に根を張り、国香は常陸大掾に、良持は下総に土着しましたが鎮守府将軍となって陸奥国胆沢城に赴任、良兼は上総国に土着し下総介に、良文(村岡五郎)は武蔵国を基盤としました。そして、これらの子孫が繁栄し後世、千葉、三浦、大庭、梶原など「坂東八平氏」と称する有力武士団へと成長していきます。
 治承・寿永の内乱期に、源頼朝に力を貸した有力武士団の多くがこの系統の桓武平氏であり、北条時政、千葉常胤、三浦義明、畠山重忠、梶原景時などはみな平高望の子孫にあたります。高望の東国下向から約300年を経た治承・寿永期においてもなお、このように平氏系統の諸氏が関東各地に根付いていたという事実は、この一族が草創期において東国に与えた影響力の強さを物語っています。高望の子どもたちは、皇族の流れを汲む「貴族」に近い者として尊重され、また国家とは独立した軍事力を保持しているという点において、未開の坂東において相応の支配力を発揮することができたのです。この後、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役といった大きな内乱をとおして、関東における覇権は平氏から源氏へと移っていきますが、それにもかかわらず、多くの平氏の末裔たちが東国に根を張り続けたのでした。

武士の地位を変えた「平将門の乱」

 10世紀前半、坂東の秩序を一変させる大事件が勃発しました。史上有名な平将門の乱です。平氏一族の内紛に端を発したこの乱は、その後思わぬきっかけから朝廷に対する叛乱となり、中央貴族を震撼させるほどの一大事件へと発展します。同時期に瀬戸内で発生した藤原純友の乱と合わせて“承平・天慶の乱”と呼ばれています(ただ、将門の行動がれっきとした“謀反”となるのは天慶二年以降なので、両乱とも正確には天慶年間のできごとになります)。
 奇しくも同時期に起こったこれらの乱は、結果的には朝廷に武士の力(職能としての武芸)を認めさせることになり、武士が貴族の末端に仲間入りする(軍事貴族となる)きっかけを与えることになりました。しかし、皮肉なことにその栄誉を手にするのは乱の当事者である平将門ではなく、彼を追討したその他の武士勢力だったのです。この乱の歴史的意義は、乱の平定を機に坂東の武士たちが「兵の家」として朝廷や国衙に認められたことだといえます。すなわち、武士が王朝国家の傭兵として様々な武的紛争の解決者の役割を担うことになったのであり、この両乱(将門・純友の乱)の追討に貢献した一族の子孫が、これ以後、朝廷や国衙に“武士”として認められるようになったのです。中世の「武士」の誕生に対して、これらの両乱がもたらした影響はそれほどまでに大きかったといえます。
 将門鎮圧の最大の功労者は下野国の押領使・藤原秀郷と平貞盛でした。平貞盛は伊勢平氏の祖・維衡の父であり、忠盛や清盛など黄金期の平家一門へとつながる人物です。貞盛は、乱を平定した功により従五位上に叙せられ、丹波守や陸奥守、鎮守府将軍などの職務を歴任します。そして、勲功賞をテコに中央とのつながりを強化し、子どもたちの立身のみならず、甥や甥の子どもまでをことごとく自分の養子にして一族を繁栄へと導きました。たとえば、横田河原合戦で木曽義仲に破れた城助職(平家物語では助茂。後に長茂と改名)の先祖に、貞盛の十五男(余五)で“余五将軍”といわれた平維茂がいます。この維茂は、実は貞盛が弟繁盛の孫を自分の養子にしたもので、“将軍”という呼び名からもわかるとおり、貞盛の威光により鎮守府将軍に就任しています。高望流桓武平氏は、貞盛の代において小さいながらも栄達の第一歩を踏み出すことができたわけです。

最初は一族間の“私闘”に過ぎなかった

 この時代の記録としては、初めての軍記物語といわれる『将門記』、藤原通憲(信西入道)が鳥羽上皇の命によって撰述した年代記『本朝世紀』、乱の当時朝廷の中心人物だった摂政藤原忠平の日記の抄本『貞信公記抄』など信憑性の高い資料が数多くあり、これらの資料を通してこの乱の大略を掴むことができます。
 先述したように、平高望には国香、良持、良兼、良正、良文らの子息がおり、貞盛は国香の子、将門は良持の子です。従兄弟同士だった二人は、ともに若い頃から京で働いていました。貞盛は、御所の御厩の馬や馬具、諸国の牧場の馬を管理する馬寮において、左馬允(允は六位~七位に相当)という職に就いていました。将門は、左大臣だったころの藤原忠平に家人として仕えており、忠平の推挙により滝口として天皇警衛にあたっていました。滝口は、御所の警護や御所内の宿直を主な仕事としているため(庭に草木を植えたりということまでしたらしい)、武芸に長じた者を試験によって選抜しました。武勇に秀でた将門らしい仕事といえます。
 より高い官職をめざし、貴族の仲間入りをするべく働いていた二人でしたが、将門のほうは父良持の死を機に、その遺領を受け継ぐため帰郷します。ところが、下総国に帰った将門を待っていたのは、叔父たちとの果てしのない争いでした。良兼が自分の娘と将門との婚姻に反対したことがきっかけだったようですが、国香と良兼が良持の遺領を乗っ取ろうとしたことも、争いの原因としてあったようです。
 承平5年(935)2月、将門と一族との戦いの火ぶたが切って落とされました。国香や良兼、良正らと姻戚関係を結び平氏一族と深い関係にあった前常陸大掾源護の一族と合戦に及び、護の子息の扶や隆、繁をはじめ、姻戚関係から護に味方した叔父の国香を殺害、その邸を焼き払いました。父の訃報を聞き、急遽貞盛は帰郷します。しかし、貞盛は父を殺されたにもかかわらず、国香の遺領の保全の約束を将門と交わして和睦をしました。おそらく、これは在郷勤務を続けるための処置で、この行動から中央での立身を重視する貞盛の姿勢が見て取れます。あるいは、良持の遺領を横領しようとした父の行為を知っていて、将門に負い目を感じていたのかもしれません。この間、源護は自分の息子たちを殺した将門を朝廷に訴え、同年12月、政府は将門召喚の官符を下しました。
 しかし、翌年6月には、貞盛は良兼、良正、源護らと共同戦線を張り下野国境付近で将門と戦います。前回の和睦から、どのようないきさつで合戦に及んだのかはわかりませんが、合戦終了後、将門が国衙の官人に「良兼のほうから無道の合戦を仕掛けた」と国庁の日記に記させているところから、良兼が率先して起こした戦だった可能性が強いようです。10月、将門は先の召喚官符に従って上京し、検非違使庁で裁判を受けます。しかし、罰はいたって軽く、しばらくの間拘束されると翌正月には大赦によって赦され、5月に帰国しました。
 しかし、将門を待っていたのは、またもや泥沼の私闘でした。8月に良兼が息子の公雅・公連、源護、貞盛とともに、将門の支配下にある豊田郡の御厩や百姓の私宅を焼き払うと、9月、今度は将門が真壁郡にある良兼館と良兼の味方の私宅を焼き払い報復します。きりのない戦いに辟易したのか、将門は下総国衙に良兼の罪を訴える解文を作ってもらい、政府に提出しました。すると11月には、中央から武蔵・安房・上総・常陸・下野の諸国に、将門に良兼・護・貞盛・公雅・公連を追捕させよという旨の官符がおります。勇躍する将門でしたが、諸国の受領からは将門に協力する姿勢は見られませんでした。12月になると、良兼は将門の従僕・小春丸の手引きで下総国猿島郡の石井の営所を夜襲しますが、これは失敗に終わります。
 ここに来て、これ以上一族の私闘に関わることが自身の立身の妨げになると判断したしたのか、はたまた将門の動きを封じるために上訴を企てたものか、天慶元年(938)2月、貞盛は密かに東山道から上洛しようとします。自分との和睦を反故にして貞盛が良兼に荷担したことを怒っていた将門は、急ぎ貞盛を追撃、信濃国の千曲川に追いつめます。将門の攻撃の前にさんざんに討ちなされた貞盛は、這々の体で山中に逃れました。こうして、貞盛は京に退避し、翌年6月に良兼が病死すると、平氏一族間の泥沼の私闘は一端の終息をみるのです。

“私闘”から一転、稀代の叛乱に!

 天慶2年(939)2月12日、上京した貞盛の訴えを聞いた政府首脳は、将門召喚使の派遣を決めました。さらに、3月3日には武蔵介として坂東に赴任していた源経基も、将門の謀反を訴えてきました。昨年、受領着任前に国内巡検を強行しようとした武蔵権守・興世王と経基が、在庁官人・武蔵武芝と衝突した際、将門は仲裁を買ってでました。その際、ちょっとした手違いから、経基は将門と興世王が武芝にそそのかされて自分を殺そうとしたと勘違いをしてしまったのです。将門は、謀反の実否を問う忠平からの書状に対して無実を主張しますが、中央政府の将門に対する疑惑は消えませんでした。
 貞盛は将門召喚官符を持って、再び常陸国に帰ってきました。しかし、実際この頃の将門に謀反の意志はなく、将門・貞盛の義理の叔父にあたる常陸の国司・藤原維幾を除いて、諸国の受領はこれに協力しませんでした。あきらめた貞盛は天慶2年8月、奥州に身を潜めることにし、赴任途中に下野国に寄っていた陸奥守・藤原維扶を訪問するも、またしても将門の追撃に遭い、山野に逃れるはめになりました。このまま、無難に時が過ぎるのを待てば、あるいは将門は謀反人になることはなかったかもしれません。しかし、武蔵守と衝突した権守・興世王、常陸の受領・藤原維幾と官物(租税)弁済についてもめ、追捕を受ける身となった藤原玄明らが、次々と将門のもとを頼って来ました。頼られると突き放すことができない親分肌の将門が、これらのやっかい者を引き受けたところから、事件は稀代の大叛乱へと発展していくのです。
 同年11月21日、藤原玄明に同情した将門は軍勢を従えて常陸の国庁へ進攻、玄明の追捕を止め玄明の常陸国居住を認めるよう要求しました。事前に将門の動きを察知し軍勢を整えて待っていた藤原維幾の子・為憲と平貞盛は、将門に戦いを挑みますが、またしても惨敗して逃走します。勢いづいた将門は、国庁を占拠し受領の象徴である印鎰(国印と正倉の鍵)を奪ったうえ、受領・維幾を捕縛、財物を略奪し家々を焼き払ってしまいました。これにより、将門の叛逆は公然のものとなったのです。思わぬ展開に将門自身当惑しましたが、この時、同道していた興世王は「一国を占領しただけでも大罪なのだから、いっそのこと板東全域を占領しよう」と言ったということです。
 事実、翌月には、将門は下野、上野と立て続けに国庁を占拠し、両国の受領を京に送還します。そして、12月19日、上野国庁において「新皇」即位の儀礼を挙行し、兄弟・郎等を、ことごとく板東諸国の受領に任命しました。空前絶後の「坂東独立国家」の誕生でした。

貞盛・秀郷連合軍が「新皇」将門に挑む!

 「将門坂東占領」の報が京に届いたと同じ頃、西海からは藤原純友蜂起の報も届いたことで、朝廷内は一気に騒然となりました。摂政藤原忠平は国境や内裏の警護を命ずるとともに、東西それぞれに追捕使を任命、東海・東山両道の国々には平将門追討官符を下し恩賞を約束しました。貞盛は常陸国の押領使に任命されると、天慶3年正月、下野国押領使・藤原秀郷をさそって将門追討に赴きます。
 折しも、農繁期のためにほとんどの兵たちが将門の元を離れており、彼の周りにはわずかな兵しか残っていませんでした。将門は急ぎ軍をまとめると、貞盛・秀郷連合軍を迎え撃つために下野国へ向かいました。しかし、秀郷の軍勢が後陣の藤原玄茂・多治経明を討ち破ると、貞盛・秀郷の両軍勢は本隊めがけて一気に攻め込み、将門軍はいったん撤退を余儀なくされます。2月13日には、将門軍を追って下総国境に兵を進めた両軍が、将門の本拠地を焼き払いました。
 2月14日午後3時頃、楯を吹き飛ばすほどの季節風が吹き荒れるなか、猿島の原野で決戦の火ぶたが切って落とされました。初めは、風上に立った将門軍が少ない兵力にもかかわらず善戦して官軍を四散させます。しかし、風向きが変わると貞盛・秀郷連合軍は追い風に乗って反撃、秀郷の精兵300余人が将門の本陣に突入しました。そして最後は、貞盛の放った矢が馬上の将門を射落とし、駆け寄った秀郷が将門の首を打ち落とします。ここに、坂東八か国を従えた希代の英雄は、あっけなく滅びてしまうのでした。
 乱の後、貞盛は前述したように従五位上に叙せられますが、一方の秀郷はとういと、貞盛よりも上の従四位下に叙されました。そして、後には二人とも前後して鎮守不将軍に任命されました。かつて「将軍」といえば、この鎮守府将軍をさしたほどで、武士にとっては非常に名誉のある官職でした。そして、彼等とその子孫達は、地方に経済的な基盤を置きながら京において政治的な活動を行う、「中央軍事貴族」として発展していくのです。

武士にとってもっとも大切な「名誉」

とはいえ、まだまだ武士の地位は低く、朝廷の番犬の域を脱するものではありませんでした。今昔物語には、貞盛について次のような逸話が紹介されています。
 ある時、貞盛は賊(東国の群盗でしょうか)から受けた矢傷がもとで悪いできものを患ってしまいます。医者から「胎児の生き肝をとれば治る」といわれた貞盛は、折しも妊娠していた息子・維衡の妻の腹を裂いて取り出させようとします。しかし、維衡が医者に頼んで「身内の肝では効かない」と言わせたので、結局、別の胎児の肝が取られてしまいました。この話がもれることを恐れた貞盛は、口止めに医者を殺すよう維衡に命じますが、助けてくれた医者を殺すことができなかった維衡は、代わりに自分の郎等を殺したということです。
 平将門との戦では、逃げるばかりでいいところなしの貞盛でしたが、このような武士らしい荒っぽさを持っていました。残酷な話ですが、現代の我々がこの話に感じる残酷さは、罪もない人々が殺されるという面もさることながら、貞盛の非科学的な行動・思想によるところが大きいのではないでしょうか。胎児の生き肝をとったからといって病気が治るわけもなく、そのために罪もない人が殺されるのは不憫だ、と。しかし、貞盛は自分の命が危ういと本気で信じていたのであり、胎児の命か自分の命か(もちろん母親の命も犠牲にされいているのですが)という選択を迫られていたわけです。このときの貞盛の行動を規定したものは、自分の命ではなく、武士としての名誉でした。賊から受けた傷がもとで死んだとあっては、かろうじてつなぎ止めている権威が失墜する、それを何よりも恐れたのです。  武士の勢力はまだまだ脆弱で、国政を動かすようになるまでには、さらに長い年月を要するのです。

参考文献

竹内理三著『日本の歴史6 武士の登場』(中公文庫)/ 下向井龍彦著『日本の歴史07 武士の成長と院政』(講談社)/ 野口実著『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『源平の盛衰』(講談社学術文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)/ AERAMook『平家物語がわかる。』(朝日新聞社)/ 安田元久著『人物叢書・後白河上皇』(吉川弘文館)/ 和田英松著・所功校訂『新訂 官職要解』(講談社学術文庫)