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頼朝に愛された時家

継母に疎まれ東国に流される

 平清盛の義弟(妻時子の弟)である平時忠は、清盛の武家平氏とは系統を異にする堂上平氏であるが、「平家にあらずんば~」の放言で知られるとおり、清盛の一門とは一蓮托生の関係にあった。元暦元年(1184)7月、嫡子時実はもちろん、従兄弟の信基、妻の領子(帥典侍)らとともに都落ちし、二年後に壇ノ浦で捕えられた。生粋の公家であったために死罪こそ免れたものの、清盛一門と同じく、二度と政界の表舞台に立つことはなかった。
 ところが一人、時忠の息子でありながら、早くから鎌倉に下り頼朝の側近となった公達がいた。時忠の次男時家である。
 時家は蔵人、美作守、侍従、伯耆守などを経て、安元2年(1176)1月に右近衛少将、治承元年(1177)に従四位下に叙された。父時忠の権勢を背景に、順調に出世街道を歩んだ時家であったが、治承3年の政変によりにわかに前途を閉ざされる。清盛が関白藤原基房をはじめ廷臣39名を解官させたこのクーデターにおいて、時家は一門でありながら解官の憂き目を見たばかりか、清盛の命により上総国に配流されたのである。
 平家の支柱ともいうべき時忠の息子が、京から追放されたのはなぜか。『吾妻鏡』によると、時忠の後妻である領子の讒言によるものだったといわれる。継母の企みによって上総に流されたが、同国の有力在庁官人である上総広常に気に入られて娘をめとり、広常の婿となった。広常は上総随一の実力を誇る御家人で、幕府における威勢もなみなみならぬものがあったが、頼朝に対して尊大な態度を取ることが多かったため、かねてから頼朝とは不和であった。
 そこで広常は頼朝のご機嫌をとり結ぶために、養和2年(1182)1月、「京洛の客を愛する」頼朝に時家を推挙し、以来、時家は頼朝から特に目をかけられたという。頼朝に重用された京下りの官人には大江広元、三善康信などがいたが、官位において前近衛少将・従四位下という時家の経歴に比肩する者はいなかった。

公家としての教養と見識で頼朝を支える

 もっとも、時家がもてなされたのは、高貴な家の出であったという理由からだけではない。詩歌管弦に長じていたのはもちろん、文官貴族の出身らしく宮廷儀礼にも通じていたためであった。
 たとえば、こんな例がある。寿永3年(1184)4月4日、頼朝の御所の庭に桜が咲いた。その色が艶やかで濃かったため、頼朝は妹婿の一条能保のほか、時家を御所に招いて管弦・詠歌を催した。一ノ谷で捕えられた平重衡が伊豆に到着する4日前のことである。
 また、建久2年(1191)、幕府の命により新造された法住寺殿の牛屋に入れるため、奥州や越後から駿牛が集められた際、それらが京の牛車には適さないとして、馬を代わりに送るよう進言したのも時家と三善康信であった。発足間もない幕府にとって、京の朝廷と渡りあうためには、武力だけではなく貴族に匹敵する見識や教養も必要だった。内乱が終結した今、幕府の対面を保つ上で、時家ら京下りの文官のノウハウは何よりも貴重だった。
 時家が父時忠に似ず、権力に対して淡泊だったことも、頼朝を安心させたようだ。政治的な問題には介入せず、あくまで客分として振る舞った。時忠のような野心は露ほども見せず、養和二年の初参以後、10年に渡って頼朝に近侍し、建久4年(1193)5月10日、鎌倉で死去した。頼朝は深く哀傷し、その死を悼んだという。

参考文献

角田文衛著『平家後抄(上)』(講談社学術文庫)/ 龍肅訳註『吾妻鏡』(岩波文庫)