資盛の粋
平家一門中、随一の美男子
平資盛といえば、「殿下乗合事件」のきっかけをつくった公達としてよく知られている。孫を思う清盛の優しさが、摂関家への報復という未曽有の暴挙に発展する逸話だが、復習の黒幕が重盛であったことも今ではかなり知られるようになった。
現実の資盛も、都落ちの直前、法住寺殿にかけ込んで法皇に助けを求めたり、大宰府落ち後、豊後で捕らわれたとの風説を立てられるなど、何かと話題が絶えない。だが、資盛の名を知らしめている最大の理由は、何といっても建礼門人右京大夫の恋人だったことによるだろう。
もっとも『建礼門院右京大夫集』の中で、資盛の名や官職名がそれとわかるように出てくる場面はほとんどない。その多くは「さめやらぬ夢と思ふ人」「もの思はせし人」というように、わざとぼかした呼び方になっている。永遠の恋人の名は軽々しく口にできないという女心なのだろうか。または身分高く、年も若い資盛に対するコンプレックスのようなものがあったのかもしれない。いずれみせよ、ストレートに名前を出すよりも、かえって資盛に対する彼女の思いが読み手に伝わってくる。
光源氏にたとえられた青海波の舞
恋人同士だけに、『右京大夫集』に載せれた逸話や贈答歌も多いが、もっとも印象的な場面をひとつ紹介したい。壇ノ浦に沈んだ資盛の後世を弔いながら日を送っていた右京大夫が、在りし日の恋人を偲んで記した一節である。
ある冬の日、思うまいとしても、なお思い出してしまう亡き恋人を思いつつ、ふと部屋を出て外を眺めると、橘の木に雪が深く積もっているのが目についた。それを見た右京大夫は、いつの年であったか、内裏で雪が高く積もった朝に見た資盛の姿を思い出す。
宿直姿の資盛が、「萎ばめる直衣」(糊気が落ちて柔らかに見える直衣)を着て、橘の木に降りかかった雪を、そのまま落とさずに持っていた。「どうして特別に、その木をお折りになったのですか」と右京大夫が尋ねると、資盛は「いつも慣れ親しんでいる場所にある木だから、その縁で慕わしく思われて」と答えた。そういった折のことがたった今のことのように思えて、その悲しさはいいようがなかったと右京大夫は記している。
平安貴族とは、かくもロマンチストなのかと思わずにおられない逸話である。右近衛府の官人は朝廷の儀式のとき、右近の橘の側に立つ。資盛は右近衛権中将だったため、橘に親近感を抱いたのである。右京大夫の視線を感じて、あえて気取って見せたとも考えられるが、話の流れからして、彼女が資盛を見たときはすでに枝を手にしていたのだろう。資盛は心の底から縁にひかれて橘の枝を手折り、愛でていたのだ。
貴族らしい繊細な感性、自然に対する愛着、その気持ちを恥ずかしげもなく語ってしまうおおらかさ。「殿下乗合事件」のために、苦労知らずのわがままな公達というイメージもあるが、その心根は決して貧しくはない。資盛もまた、重衡や維盛と同様に、華麗なる平家一門の「粋」をみごとに体現していた一人だったといえよう。
参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/糸賀きみ江校注『建礼門院右京大夫集』(新潮社)/井上嘉子著『五常楽 平家公達徒然』(シースペース)